「鈴木志郎康」の版間の差分

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桃ピーチ (会話 | 投稿記録)
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1964年、[[天沢退二郎]]、[[渡辺武信]]、[[菅谷規矩雄]]、[[藤田治]]、[[彦坂紹男]]、[[秋元潔]]、[[山本道子 (作家)|山本道子]]、[[野沢暎]]、[[高野民雄]]とともに、雑誌「[[凶区]]」創刊。「凶区」には、のちに[[金井美恵子]]が加入するが、1971年に廃刊宣言号を出す。鈴木は廃刊以前に脱退。1968年、2冊目の詩集『罐製同棲又は陥穽への逃走』により[[H氏賞]]受賞。第IV部に「処女プアプア」が登場、鈴木志郎康といえば「プアプア詩」と思われていた時期もあった。破壊的な口語表現と[[エログロ]]描写とナンセンス言葉が衝撃を与える。極私的(きょくしてき)という言葉は、この頃の鈴木の造語である。しかし、1974年の『やわらかい闇の夢』は一転平易な言葉で都市の中の個人を描き、それも驚きを持って受け止められたのだった。
 
1971年から1976年まで[[東京造形大学]]非常勤講師。1976年から[[イメージフォーラム]]付属映像研究所講師。1982年から1994年まで早稲田大学文芸科非常勤講師。1990年から[[多摩美術大学]]教授。2002年、詩集『胡桃ポインタ』で[[高見順賞]]受賞。2006-07年、多摩美大客員教授。2008年『声の生地』で[[萩原朔太郎賞]]受賞。2014年、『ペチャブル詩人』で第23回[[丸山豊記念現代詩賞]]受賞。2016年、渋谷区長より80年以上にわたり20本以上の歯を大切に残していることを表彰される。(以下の本人サイトを参考にして加筆)
 
詩作のみならず映像作家、映画評論家としても活躍する。1999年には横浜美術館レクチャーホールにて映像個展「時の堆積は自然と人を復活させる」が開かれ、その当時までに撮られた25本の作品がまとめて上映された。