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[[File:7thEarlOfElgin2.jpg|thumb|300px|right|彫刻群を持ち帰った第7代エルギン伯爵トマス・ブルース]]
 
'''エルギン・マーブル'''(Elgin Marbles、Parthenon Marbles)は、[[古代ギリシア]]・[[アテナイ]]の[[パルテノン神殿]]を飾った諸彫刻。[[19世紀]]に[[イギリス]]の外交官第7代[[エルギン伯爵]][[トマス・ブルース (第7代エルギン伯爵)|トマス・ブルース]]がパルテノン神殿から削り取ってイギリスに持ち帰り、現在は[[大英博物館]]に展示されている。'''エルギン・マーブルズ'''などとも表記される。
 
==歴史==
前5世紀、古代ギリシア・[[アテナイ]]の丘に立つパルテノン神殿が修築された。エルギン・マーブルは、この神殿に彫り込まれていた諸彫刻のことを指す。1800年、イギリスの外交官であった第7代[[エルギン伯爵]][[トマス・ブルース (第7代エルギン伯爵)|トマス・ブルース]]([[ジェイムズ・ブルース (第8代エルギン伯爵)|8代伯]]の父)(1766(1766-1841)が、[[オスマン帝国]]駐在の特命全権大使として[[イスタンブール]]に赴任すると、このパルテノン神殿の調査を始めた(当時のギリシアはオスマン帝国領である)。神殿彫刻に関心を抱いたエルギン伯は、当時の[[スルタン]]・[[セリム3世]]から許可を得て、多くの彫刻を切り取ってイギリスへ持ち帰った。当時のオスマン帝国は[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]率いるフランス軍の[[エジプト・シリア戦役|エジプト遠征]]を受けた直後であり、このフランス軍を撃退したイギリスと良好な関係にあった。
 
19世紀前半、[[ロマン主義]]の風潮が高まる中で、エルギン・マーブルがイギリスで公開されると、多くの人々の古代ギリシアへの憧憬を高めさせた。だが一方エルギン伯の「略奪」行為を非難する声も大きく、[[ジョージ・ゴードン・バイロン]]は「[[チャイルド・ハロルドの巡礼]]」第二巻及び「ミネルヴァの呪い ''The Curse of Minerva''」で激しく痛罵した。これらの批判が激しくなったことと、長年に渡る彫刻群の輸送で巨額の負債を抱えたため、エルギン伯は[[1816年]]にイギリス政府にエルギン・マーブルを寄贈、その後大英博物館に展示されて現在に至る。