「アリー・ハーメネイー」の版間の差分
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モンタゼリー失脚時点では憲法に最高指導者は大アーヤットラーでなければならないという規定が存在したが、モンタゼリーにかわる好ましい大アーヤットラーの後継者が見つからなかったため、ホメイニーは大アーヤットラーでなくとも最高指導者の地位に就けるように憲法第109条の改正を行い、親体制派の聖職者たちに対して道を開いた。
ホメイニーは法学者の最高位[[マルジャエ・タクリード]](大アーヤットラー)であったが、ハーメネイーは長く[[ホッジャトル・エスラーム]]にすぎず、この時昇格してもなお[[アーヤトッラー]]であり、[[マルジャエ・タクリード]]には届いていない。当初、最高指導者はマルジャエ・タクリードでなければならないとされていたため、ハーメネイーの権威に傷が付くことになったのである。
最高指導者となったハーメネイーは、[[1997年]]まで、政治の舞台では保守派の味方についた。ハーメネイーは、1989年から1997年まで大統領だったラフサンジャーニーに目に見える支援を与えなかった。このことは、「専門家会議」を支配するコム出身の宗教活動家側からの非難を懸念したからだとされる。その外、ラフサンジャーニーは、ハーメネイーと自分を対等と考え、彼に圧力を加えようとすらした。
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2千万人以上の国民が選出したハータミーの勝利は、ハーメネイーに自分の立場の再検討を余儀なくさせた。彼は、新大統領の方針が客観的に社会の要求に応えているとの結論を下した。保守派の宗教・政治運動支持者中には、国民中の人気の急激な低下によって引き起こされた重大な見解の相違が生じた。若干の権威ある宗教活動家、学生及びイスラム革命防衛隊の代表は、過激な保守派の政策に不満を示した。
[[1994年]]、
[[1999年]]後半、情報省職員による改革派政治家の暗殺が暴露されたが、その組織者の中には、ハーメネイーが信任する情報省次官もいた。1999年中盤までに、国内情勢は、危機的状況にまで悪化した。ハーメネイーは、ハータミー等と協議し、左派・右派を問わず過激派の出現を許さないことに決めた。彼は、法治主義、並びに憲法で規定された権利と自由の保障を志向した政府の方針への同意を表明した。
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