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しかし[[貞享]]元年([[1684年]])、堀田正俊が[[若年寄]]・[[稲葉正休]]に刺殺されると、綱吉は以後大老を置かず[[側用人]]の[[牧野成貞]]、[[柳沢吉保]]らを重用して老中などを遠ざけるようになった。また綱吉は儒学の'''孝'''に影響されて、母・[[桂昌院]]に[[従一位]]という前例のない高位を朝廷より賜るなど、特別な処遇をした。桂昌院とゆかりの深い本庄家・牧野家([[小諸藩]]主)などに特別な計らいがあったともいう。
 
この頃から有名な'''[[生類憐れみの令|生類憐みの令]]'''をはじめとする、後世に“悪政”といわれる政治を次々と行うようになった(生類憐れみの令については、母の寵愛していた[[隆光]]僧正の言を採用して発布したものであるとされる。なお、一般的に信じられている「過酷な悪法」とする説は、江戸時代史見直しの中で再考されつつある。詳しくは綱吉の[[#評価]]を参照のこと)。これらが幕府の財政を悪化させた。勘定吟味役(後の[[勘定奉行]])・荻原重秀の献策による貨幣の改鋳を実施したが、本来改鋳すべき時期をやや逸していたこともあり、また[[元禄小判|元禄金]]と[[元禄丁銀|元禄銀]]の品位低下のアンバランス、富裕層による良質の旧貨の退蔵から、かえって経済を混乱させている<ref>三上隆三『江戸の貨幣物語』東洋経済新報社、1996年</ref>。
 
嫡男の徳松が死去した後の将軍後継問題では、綱吉の娘婿(娘・[[鶴姫 (徳川綱吉長女)|鶴姫]]の夫)である[[徳川綱教]]([[紀州徳川家]])が候補に上がったが[[徳川光圀]]が反対したという説もある。宝永元年([[1704年]])、6代将軍は甥(兄・綱重の子)で[[甲府徳川家]]の[[徳川家宣|綱豊]](のちの家宣)に決定する。綱吉は宝永6年(1709年)1月10日に成人[[麻疹]]により死去<ref>{{PDFlink|[http://www.eiken.co.jp/modern_media/backnumber/pdf/MM1007_03.pdf 第7回「麻疹(はしか)」 -天然痘と並ぶ2大感染症だった 加藤茂孝]}} モダンメディア 2010年7月号(第56巻7号)</ref>、享年64。