「昭陵 (唐)」の版間の差分
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[[File:Zhao Mausoleum.JPG|300px|thumb|昭陵]]
'''昭陵'''(しょうりょう)は、[[唐]]の[[太宗 (唐)|太宗]]李世民([[
== 概要 ==
往古の唐の都である[[長安]]城(西安市)の西北方に位置しており、現在の行政区画では、[[咸陽市]][[礼泉県]]の北東25kmに位置する九嵕山(きゅうそう
設計を[[閻立徳]]
その陵前は、乱冢坪と呼ばれ、そこから山麓にかけて、総数200近くと称せられる、初唐の[[宗室]]諸王や公主、[[魏徴]]・[[李靖]]・[[李勣]]・[[房玄齢]]ら功臣たちの陪葬墓を見ることができる。太宗の死去の際には、[[王羲之]]の『蘭亭叙』もおさめられたと伝えられる。陪葬墓には壁画が残っているものもある。
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[[五代十国]]の[[後梁]]の時代、軍人の温韜によって盗掘され、合葬されていた多くの名品が運び出されている。また、『[[南唐書]]』の鄭元素伝には、元素が昭陵を盗掘しようと中に入った時のさまが描写されており、そこから昭陵内部の様子をうかがい知ることができる。
昭陵の地上に見られるのは、玄武門の一部と摩滅した石碑の一部だけである。太宗遺愛の名馬の像を板石に刻ませたという「昭陵六駿」が有名である。太宗が隋末の戦乱の際に乗馬していた馬を石に浮彫したもので、「白蹄烏」
そのうち4駿は[[西安碑林博物館|西安碑林]]に収蔵され、「颯露紫」と「拳毛𩢍」2駿は[[アメリカ]]の[[フィラデルフィア]]に渡った。全ての石にあるひび割れは、分割して運んだためであると伝えられる。
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