「近衛文麿」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Caesar1960 (会話 | 投稿記録)
m編集の要約なし
→‎第三次内閣: 内容修正。
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
192行目:
御前会議の終わった[[9月6日]]の夜、近衞はようやく日米首脳会談による解決を決意し駐日アメリカ大使[[ジョセフ・グルー]]と極秘のうちに会談し、危機打開のため日米首脳会談の早期実現を強く訴えた。事態を重く見たグルーは、その夜、直ちに首脳会談の早期実現を要請する電報を本国に打ち、国務省では日米首脳会談の検討が直ちに始まった。しかし、国務省では妥協ではなく力によって日本を封じ込めるべきだと考え、[[10月2日]]、アメリカ国務省は日米首脳会談を事実上拒否する回答を日本側に示した。
 
陸軍はアメリカの回答をもって[[日米交渉]]も事実上終わりと判断し、参謀本部は政府に対し、外交期限を10月15日とするよう要求した。外交期限の迫った[[10月12日]]、戦争の決断を迫られた近衞は外相・豊田貞次郎、海相・[[及川古志郎]]、陸相・東條英機、企画院総裁・[[鈴木貞一]]を[[#荻外荘|荻外荘]]に呼び、対米戦争への対応を協議した。いわゆる「荻外荘会談」である。そこで近衞は「今、どちらかでやれと言われれば外交でやると言わざるを得ない。(すなわち)戦争に私は自信はない。自信ある人にやってもらわねばならん」と述べ、[[10月16日]]に政権を投げ出し、[[10月18日]]に内閣総辞職した。近衞と東條は、[[東久邇宮稔彦王]]を次期首相に推すことで一致した、しかし、東久邇宮内閣案は皇族に累が及ぶことを懸念する内大臣・木戸幸一らの運動で実現せず、東條が次期首相となった。近衞は東條首相を推薦した[[重臣会議]]を病気を理由に欠席しているが、当時91歳の[[清浦奎吾]]が出席していたのと対比されて後世の近衞批判の一因となった。ただ、近衛の秘書を務めていた<nowiki>[[細川護貞]]</nowiki>は「当時の近衛はひどい<nowiki>[[痔]]</nowiki>に悩んでおり、椅子にも深く座れず腰を少しだけ載せていた」と<nowiki>[[保阪正康]]</nowiki>のインタビューに語っており、近衛の健康状態が政権投げ出しや重臣会議欠席につながった可能性がある(保阪著『続昭和の怪物七つの謎』講談社、2019年)。
 
=== 終戦工作 ===