「フランス風景式庭園」の版間の差分

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[[ファイル:Chateau_de_versailles33.jpg|右|サムネイル|250x250ピクセル| ヴェルサイユでマリーアントワネットのJardin de la reineのために造られたテンプル・ダムール ]]
[[ファイル:Marie_Antoinette_amusement_at_Versailles.JPG|右|サムネイル|250x250ピクセル| ヴェルサイユ・マリーアントワネットののどかな "hameau de la reine" ]]
'''フランス風景式庭園''' ( {{Lang-fr|jardin paysager, jardin a l'anglaise, jardin pittoresque, jardin anglo-chinois}})は、理想的なロマンチックな風景、ユベール・ロベール、[[クロード・ロラン]]、[[ニコラ・プッサン|ニコラス・プッサン]]の絵画、[[中国庭園]]に関するヨーロッパのアイデア、そして[[ジャン=ジャック・ルソー|ジャン=ジャック・ルソーの]]哲学に触発された庭園のスタイル、18世紀初頭イギリスで「[[イギリス式庭園|イギリス風景式庭園]] 」として始まった庭園のフランス版で、18世紀後半から19世紀初頭にかけて徐々に対称的な[[フランス式庭園|フランス式の平面幾何学式庭園]] ( {{Lang|fr|jardin à la française}} )から置き換えられていく。 {{sfn|Wenzler|2006|p=27}}
 
なお、18世紀末に大流行し、当初「イギリス式庭園」と呼ばれていた庭園様式がシャルル・アルファンから1世紀ほどが経過する中で、フランス化された可能性も十分あるが、イギリス風景式庭園がフランスではどのように呼ばれているのかについては、2014年にフランスの公園·庭園委員会に登録されている公園などに関する資料があり、その結果、[[アンリ・マルチネ]]が設計したロネルやボーモンの公園やマルチネの師[[ュアール・アンドレ]]設計によるコニャックの庭園などのイギリス風景式の流れを汲む庭園は、「イギリス式庭園」(Le jardin anglais)と説明されているという。また資料によれば、総数約1487か所の庭園、公園のうち、一部にイギリス式が採用されているものを含めても全体の概ね三分の一程度にしかならず、フランスの庭園全体を俯瞰すると、現在、その中心はやはり整形式庭園のようであるが、いずれにしてもアンドレによる「複合(混合)様式」の庭園などは膝元でも「フランス風景式庭園」とは呼んでいないようである。
 
また18世紀末のフランスでは、イギリス式「風景派」の影響で、中国風の庭園が建設された。しかしフランスでつくられたそれらの庭園は原型と異なり、差し迫る革命やロマン主義、象徴主義、さらにはシュール・リアリズム到来の気配までも感じさせるものだった。<ref name=A>ヴォー・ル・ヴィコント春秋 : 魅惑のフランス庭園 養賢堂 1992</ref>
 
== フランスのイギリス庭園 ==
ナポレオンの第一帝政を逃れて、多くの人々がフランスからイギリスに移住していた。やがて帝政崩壊後に帰国した彼らはイギリスの風景庭園様式を母国に伝えた。たとえばガブリエル・トゥアンは、大小の園路と円形の芝生、島状の植栽という単純モデルを基礎に、 イギリス庭園を合理的、実用的な「フランス式」に体系化し、その普及を進めた。1860年代には、イギリスのカーペット・べッディング(毛氈状の植え込み)を模倣した島状の植栽がつくられ、今でもそれらを残す公園がある。フランスでは、いわゆるカーペット・ペッディングとフラワーベッディングが混同され、「モザイクチュール」と呼ばれる両者の混合した新様式が生まれた。デザインは幾何学的だが、なかには象徴的なものや動物をかたどったものもあった。<ref Name=B/>
 
ポーランドのムスカウにあるピュックラー侯の東洋風風景庭園にもモザイクルチュールがある。花の植え込み、さまざまな形をした花壇は[[ハンフリー・レプトン]]の影響によるもので、後の「モザイクルチュール」を予感させるものである。<ref Name=A/>
 
;パリ植物園の増設計画
1820年、ガブリエル・トゥアンによるパリ植物園の増設案には、イギリス庭園の体系化を読み取ることができる。19世紀、フランス中にイギリス庭園が普及したのは、彼の体系化のおかげである。<ref Name=B/>
 
== 公園と近代墓地へ ==
19世紀には、ひとにぎりの特権階級のためではないあらゆる人のための[[公園]]という、新しい概念が登場する。フランスでは公共散策路が古くから存在し、18世紀には北東部の都市[[ナンシー]]の「ラ・ペピニエール」のように公園が[[都市開発]]のプロジェクトに組み込まれるのが普通だった。革命政府は[[聖職者]]や[[貴族]]、[[王族]]の[[領地]]を[[没収]]し、彼らの所有していた庭園のいくつかを、公共の散策の場に変えた。<ref Name=A/>
 
このような公園が[[ウィーン]]では1777年、皇帝フランツ・ヨーゼフ2世がプランターを公開し、すべての人のための[[遊園]]とした。またデンマーク人のヒルシュフェルトは、ナショナリズムの表現と自然とを結合させた「ヴォルクスガルテン」の概念を形成した。この概念はドイツに渡り、[[ペーター・ヨーゼフ・レンネ]]は、ベルリンのティアガルテンの設計に、愛国的テーマの像や戦没者記念碑を取り入れている。<ref Name=A/>
 
19世紀フランスの生んだ近代墓地の歴史は、教会敷地内への[[埋葬]]が禁止された1786年に始まる。1804年にはかの有名なペル・ラシェーズの墓地が開園している。<ref Name=B/> 18世紀の庭園に、すでに死者を記念する碑や建造物が置かれていたことを考えれば、墓園の装飾物へと代わったのはごく自然なことだった。墓地はこうして死者のためだけではなく、生きている者の庭園ともなった。曲がりくねった小道や林、 ところどころに配置された池や湖水による景観は、風景式庭園の様式にしたがってつくりだされたものだった。<ref Name=A/>
 
== ルソーの造園哲学 ==
プティ・トリアノン、ランブイエ、パルク・モンソーには風景式庭園の実態または名残りが歴然であり、その他にも部分的に風景式園につくりかえられた庭園はフランスにもいくつか残っている<ref name=okazaki/>。
;ムーラン・ジョリ(1754–72)
クロード・アンリ・ウォレット{{enlink|Claude-Henri Watelet||fr}}が[[ペイザジスト]]となって設計した{{Lang|fr|Moulin Joli}}( "かわいい工場")が、おそらくフランスにおいて、最初の新スタイル庭園となった{{sfn|Allain|Christiany|2006}}。[[数回訪れている川]]沿いの[[コロンブ]]と[[アルジャントゥイユ]]間に沿って配されたがウォレットは散歩中にその場所を見出してそこを購入し、その自然の美しさを保持する庭園を作り出していった。そこは素朴な家屋と洞窟、動物のための避難所、中国式の橋、オランダ式の橋と浮遊橋、製粉所、そして伝統的なレイアウトになる庭のある3つの島から成っていた。庭を "{{Lang|fr|L'isleenchantée}}"と呼んだウォレットは、自身が見出したこの庭は"古代から生まれ、イタリアとフランスの[[ルネサンス]]によって受け継がれてきた長い伝統に続く牧歌的スタイル"であると記した<ref>モニークモッサー、チャールズ・ウォレット ''創作者たち'' 1718年 - 1786年、ルネッサンスとデビューデュ・XIX siecle'' 、アルル、Actes Sud</ref>。庭への訪問者には画家[[フランソワ・ブーシェ]]やユベール・ロベールと[[エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン]]などがおり、[[マリー・アントワネット]]も数回訪れている{{sfn|Allain|Christiany|2006|p=319}}。
;メレヴィルの庭園
フランスの庭園に絵画の影響を持ち込んだのか画家[[ユベール・ロベール]]である。メレヴィルの庭園の絵画的風景と建築物は、彼の構想に基づく。それはイギリスの庭園家の理想よりも、限りなくル・ノートルに近いもので、自然を絵画的に再編成した力作である。<ref Name=B>ヨーロッパの庭園、 創元社;創元選書 1957</ref>
;エルムノンヴィル、オワーズ
{{main|ルネ・ド・ジラルダン}}「ルソーのイデーが端的にそこに生かされたエルムノンヴィルの庭園は前期ロマン感傷派の代表作としてフランスといわず、ひろくヨーロッパの風景式庭園の歴史において重要な位置を占めるものである」<ref name=okazaki>岡崎文彬{{PDFlink|[https://www.jstage.jst.go.jp/article/jila1934/30/4/30_4_2/_pdf/-char/ja ジヤン・ジヤツク・ルソーとエルムノンヴイル]}}『造園雑誌』 1966年 30 巻 4 号 2-6,8 </ref>。ルソーは純粋な自然の清らかさに反する、社会の堕落を指摘したが、ドイツでは、シラーとゲーテが新ロマン主義の運動を提唱し、イギリスで生まれた風景庭園の様式を、抵抗なく受け入れる素地ができていた
ジラルダン侯爵は、軍人として多くの時間を旅に費やしたあと、パリ近郊のエルムノンヴィルの地所の整備に手をつけた。のちにフランスで最も美しい風景庭園となるこの庭園の構成は、 イギリスでジラルダンを狂喜させたリーソーズに類似している。そこには円を描く散策路や、多くの記念碑、計算された適度の多様性があった。また、この庭園でユべール・ロベールがデザインしたジャン・ジャック・ルソ一の墓が重要なポイントとして用いられている。このことは墓や墓型の記念碑が装飾としてよく使われた当時の風潮を表している。<ref Name=B/> ジラルダン侯爵は、古典文化とともに近代思想にもよく精通していた。エルムノンヴイルの庭園には、そのような侯爵の知性をうかがわせる抽象的なシンボルが多い。「すべてを言い尽くした」というラテン語碑文(モンテーニュに捧げられたもののある神殿や、哲学に終わりのないことを連想させるため、あえて未完成のままにとどめられた哲学の神殿などがそれである。夢想の祭壇と囲い地は、人生の最後の6週間をここに過ごしたルソーへの敬意を表すためにつくられた。<ref Name=B/>
;レの荒野
パリの西に、モンヴィル男爵によってつくられたのが、「レの荒野」である。曲がりくねった園路、壊れた円柱、廃墟のようにつくられた家、ピラミッド形の氷の貯蔵庫、霊廟など、この神秘的かつ劇的な庭園のアイデアを生んだのは、男爵のフリーメイソン団員としての信念だろうか。<ref Name=A/>建造物は全17あり、洞窟をもつものもある。その中には、等身大を、超える大きさで、さらには松明をかかげた牧神像がいくつも置かれていた。中国風の建物というアイデアは、 イギリスから伝わったものである。ロンドン近郊にキュー ガーデンをデザインしたウィリアム・チェンバーズに端を発する中国趣味は、狂気ともいえるほどのブームとなり、 ヨーロッパ全土へと広がっていたのである。<ref Name=B/>
;マルメゾン城
マリ・ジョゼフ・ローズ・タシエール・ド・ラ・パジュリは、 1796年にナポレオン・ボナパルトと結婚し、 1799年、パリ近郊のマルメゾンの所領を得た。未来の皇后の風景庭園趣味はナポレオンは気に入らなかったが、彼女は、どうしても流行の庭園を持ちたいと強く訴えた。ジョゼフィーヌはまた、植物学に強い興味を示し、エメ・ポンプランをはじめ、当時最高権威といわれた植物学者たちの助力を得て、世界中の植物を収集した。マルメゾンの庭園はバラだけでも250種類を誇るほどになり、その監督にはポンプランが就任する。<ref Name=A/>
;ポンピニャン城(1745年 80年作品、主に1766年 74年庭園)
{{main|fr:Chateau de Pompignan}}
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