「市川崑」の版間の差分

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=== 昭和後期から平成へ ===
[[1969年]](昭和44年)には[[黒澤明]]、[[木下惠介]]、[[小林正樹]]と4人で「[[四騎の会 (映画監督)|四騎の会]]」を結成し、『[[どら平太]]』の脚本を共同で執筆、当初は4人共同監督で映画化と発表されたが、市川の撮影シーンをどの部分にするかでもめて中止となる。黒沢明は「気が付くと自分と小林正樹が映画のことで話がはずみ、市川崑は金のことばかり考えていた」と述懐している<ref>「日本映画監督・俳優論」104ページ</ref>。後年、3人が亡くなったのちに自身で監督している。ちなみに、市川は生涯で『股旅』を例外として自己出資の映画はほとんど撮っていないが(したがって、ヒットが自分の収入には結びつかない。ただし、『犬神家の一族』等ではインセンティブ契約が結ばれている)、こうした予算管理に関する手腕が、後年の東宝におけるプロデューサー兼任待遇につながっている。
この前後の約10年ほどは作品活動も沈滞気味で、[[1973年]]の『股旅』が高評価を得たり、TVの『木枯らし紋次郎』がヒットしたりしたものの、メジャー映画でこれといった代表作を出すことができず、スランプや衰弱が囁かれたこともあった。ホームグラウンドであった大映が衰退・倒産し、基本的には復帰の方向となった東宝も自社製作を大幅縮小したばかりということで、十分に腕を振るう機会が得にくくなったということもある。これは四騎の会の他の三人、豊田四郎、伊藤大輔、稲垣浩といった往年の巨匠たちに共通する悩みでもあった。職人監督として引っ張りだこだった[[マキノ雅弘]]、[[松田定次]]らも、いずれも長寿を全うしたにも関わらず、ともに劇場映画監督のキャリアは60代初めで終了している。ただ、市川はこの中では小林に次いで若く、余力を残していると見られていたことが復活劇につながる。還暦以降の劇場映画22本という多忙な晩年の始まりである。