「トラック島空襲」の版間の差分

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日本側はトラックを[[絶対国防圏]]に含め、陸上防備についても強化を図っていた{{Sfn|戦史叢書12|1968|pp=8-9|ps=絶対国防圏の設定}}{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=25a|ps=中部太平洋への陸軍兵力増強と輸送方針の変更}}。しかし、米潜水艦の活動は1943年半ばを過ぎると急速に活発になり、トラックに向かう輸送船も次々と沈められた。最も典型的なケースは1943年11月23日に横須賀を出港した[[第3123船団]]である。この船団の積荷は殆どがトラックの基地強化の為の建設資材や[[セメント]]、分解された航空機や対空火器、及びその[[弾薬]]等計7000[[トン]]であった。しかし、途中マリアナ西方沖にて待ち伏せに遭い、4隻が沈められ、12月4日、1隻だけがトラックに到着した。揚げることの出来た積荷は10%に過ぎなかったと言う。
また独立混成第五連隊の第二次輸送部隊は[[1944年]](昭和19年)1月15日に内海西部を出発したが、米潜水艦[[スタージョン (潜水艦)|スタージョン]]{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|p=439}}の雷撃で船団3隻([[赤城丸 (特設巡洋艦)|赤城丸]]、涼月、初月)のうち駆逐艦[[涼月 (駆逐艦)|涼月]]が大破する<ref>[[#S1812第十戦隊日誌(2)]]pp.38-39(昭和19年1月16日項)</ref>{{Sfn|戦史叢書06|1967|pp=245-246|ps=独立混成第五聯隊第二次輸送部隊のポナペ島進出}}。25日、輸送船4隻(赤城丸、[[愛国丸 (特設巡洋艦)|愛国丸]][[靖国丸]]、東海丸)は駆逐艦3隻([[満潮 (駆逐艦)|満潮]]、[[白露 (白露型駆逐艦)|白露]]、[[雷 (吹雪型駆逐艦)|雷]])に護衛されて再度内地を出発した{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|p=462}}。1月31日に潜水艦[[トリガー (SS-237)|トリガー]]の雷撃で靖国丸が沈没{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|p=463}}、さらに[[ギルバート・マーシャル諸島の戦い|マーシャル諸島情勢急変]]にともない、目的地をトラック泊地に変更した{{Sfn|戦史叢書06|1967|p=246}}。2月1日、赤城丸と愛国丸はトラック泊地に到着し{{Sfn|戦史叢書06|1967|p=246a}}、そのまま2月17日のトラック島空襲に遭遇することになった{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|p=249}}{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|p=463}}。
 
こうした損害は基地の拡充や防備強化を直接的に遅らせた<ref>[[大内健二]]「トラック島輸送船団消える」『悲劇の輸送船』光人社〈光人社NF文庫〉、87-96頁。</ref>。空襲時、多数の船舶が在泊していた理由の一つは、揚搭施設機構が不十分で待ち時間が生じていたためであった{{Sfn|戦史叢書71|1974|pp=254-255}}。トラックには本土の港湾や真珠湾のような整った荷役設備は無かった{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|p=463}}。
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2月11日<ref name="海鷹行動">[[#丸写真四空母II|空母II、写真日本の軍艦4巻]]、109頁「航空母艦行動年表 ◇海鷹◇」</ref>、第十三航空艦隊隷下[[第五五一海軍航空隊]]の[[天山 (航空機)|天山]]26機が改装空母[[海鷹 (空母)|海鷹]]によりトラックに到着した{{#tag:Ref|海鷹は駆逐艦[[電 (吹雪型駆逐艦)|電]]と[[響 (吹雪型駆逐艦)|響]]に護衛され、1月31日にシンガポールを出発していた<ref>[[#S1811海護総司令部(1)]]p.38(作戰経過概要、昭和19年1月31日)「海鷹(電、響)〇八三〇「トラック」ニ向ケ昭南發/常磐、西貢丸一二三〇舞鶴發」</ref>。|group="注"}}{{Sfn|日本空母戦史|1977|pp=590-591|ps=海鷹の天山輸送(昭和十九年一月)}}。天山は楓島に配備された{{Sfn|野分物語|2004|p=120}}{{Sfn|空と海の涯で|2012|p=308}}。
陸軍[[第52師団 (日本軍)|第52師団]]の第二次輸送部隊([[歩兵第69連隊]]第二大隊、[[歩兵第150連隊]]、戦車・砲兵など重機材、兵員など9000名余){{Sfn|戦史叢書06|1967|p=203|ps=第五十二師団のトラック島進出・第二梯団の輸送}}をトラック泊地へ輸送中の第3206船団(駆逐艦[[藤波 (駆逐艦)|藤波]]{{#tag:Ref|歩兵第150聯隊長林田敬蔵大佐と軍旗は藤波に乗艦、2月6日に館山泊地を出発した。|group="注"}}、輸送船5隻{{#tag:Ref|輸送船5隻の内訳は、[[暁天丸]]、辰羽丸、隆興丸、瑞海丸、新京丸。|group="注"}})は{{Sfn|戦史叢書06|1967|pp=256a-257|ps=第五十二師団主力の行動と第二梯団の遭難}}、14日にグアム島東方で連合艦隊主力部隊とすれ違ったが、情報を与えられなかった{{Sfn|野分物語|2004|p=118}}。
 
=== トラック泊地の日本軍航空兵力 ===
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2月13日<ref name="海鷹行動" />(一部資料では15日){{Sfn|空と海の涯で|2012|p=311}}、五五一空の天山と物件揚陸を終えた空母海鷹と護衛の第6駆逐隊([[響 (吹雪型駆逐艦)|響]]、[[電 (吹雪型駆逐艦)|電]])はトラック泊地を出発した{{Sfn|日本空母戦史|1977|p=591}}。
 
2月15日、駆逐艦[[山雲 (駆逐艦)|山雲]](第4駆逐隊)は輸送船「[[浅香丸 (特設巡洋艦)|浅香丸]]」を護衛してトラック泊地を出発した<ref name="十戦隊行動">[[#S1812第十戦隊日誌(3)]]、p.9〔(四)麾下艦船部隊ノ行動〕(昭和19年2月、第十戦隊)</ref><ref name="山雲浅香丸">[[#S1812第十戦隊日誌(3)]]p.5『(ト)山雲、浅香丸ヲ護衛十五日「トラック」発「サイパン」ヲ経テ二十三日横須賀着』</ref>。
 
2月16日、応急修理を終えた軽巡洋艦[[阿賀野 (軽巡洋艦)|阿賀野]]<ref name="十戦隊行動" />(第十戦隊){{#tag:Ref|阿賀野は前年11月中旬の[[ラバウル空襲]]と[[潜水艦]]の雷撃で大破{{Sfn|軽巡二十五隻|2014|pp=214-215}}、トラック泊地に帰投後、工作艦[[明石 (工作艦)|明石]]の支援を受けて修理を行っていた{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|p=517}}。|group="注"}}は駆逐艦[[追風 (2代神風型駆逐艦)|追風]]と[[第二八号型駆潜艇|第28号駆潜艇]]の護衛でトラックから日本本土へ出航した<ref>[[#吉村|吉村(1987年)]]72頁、[[#S1812第十戦隊日誌(3)]]p.19(日時、宛略)「四根機密第一六一八一七番電 第四根信電令作第一六號 阿賀野雷撃二本基点ノ三五六度一七〇浬 追風 二十八號驅潜特務艇護衛中 那珂出撃|無電」</ref><ref name="S1812十戦隊(3)06a">[[#S1812第十戦隊日誌(3)]]p.6『(リ)十六日 阿賀野「トラック」発佐世保囘航中一六四五北緯十度十分東経百五十一度四十分ニ於テ敵潜ノ雷撃ヲ受ケ二本命中十七日〇一四五沈没』</ref>。
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第27駆逐隊の駆逐艦[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]と[[春雨 (白露型駆逐艦)|春雨]]も、午前4時30分の空襲警報により急速出港{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=66}}、トラック環礁からの脱出を開始した{{Sfn|駆逐艦戦隊|1994|pp=204-206}}。空襲で時雨が爆弾1発や至近弾多数を受けたが、第50.9任務群の攻撃は受けずに離脱に成功した{{Sfn|佐藤、艦長たち|1993|pp=235-236}}<ref>[[#吉村|吉村(1987年)]]、146-147頁。</ref>。香取船団より約1時間遅く環礁を出発したが、ちょうどスプルーアンス部隊が香取や舞風に気を取られていたので補足されなかったという{{Sfn|野分物語|2004|p=118}}。
 
また、トラック島に北方から近づいていた第3206船団(藤波、[[暁天丸]]、辰羽丸、隆興丸、瑞海丸、新京丸)も、潜水艦と空襲により大打撃を受けた{{Sfn|戦史叢書06|1967|pp=256a-257|ps=第五十二師団主力の行動と第二梯団の遭難}}。まず17日未明に米潜水艦の雷撃で暁天丸が沈没した{{Sfn|戦史叢書06|1967|p=257}}。同日午後2時以降、米軍機動部隊艦載機の攻撃で辰羽丸と瑞海丸が沈没した{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=66}}。生存者の一部は新京丸に救助され、サイパン島に向かった{{Sfn|戦史叢書06|1967|p=257}}。また駆逐艦[[藤波 (駆逐艦)|藤波]]は歩兵第150聯隊長以下約1800名を救助、2月18日午後3時頃トラック泊地に到着した{{Sfn|戦史叢書06|1967|p=257}}。陸軍兵は重機材を全て失っており、丸腰での上陸になった{{Sfn|戦史叢書06|1967|p=257}}。第3206船団には[[第52師団 (日本軍)|第52師団]]の第二次輸送部隊([[歩兵第69連隊]]・[[歩兵第150連隊]]など9000名余)が乗船しており、陸軍兵員7000名が死亡したという<ref>[[#吉村|吉村(1987年)]]、143-145頁。</ref>。『戦史叢書』各巻では、戦死者を約700名とする{{Sfn|戦史叢書06|1967|p=257}}{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=37}}。
 
==== 日本軍の反撃 ====
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東京のラジオ放送では、「戦局はかつて見ない重大性、否峻烈さを加えた。敵作戦の速度より判ずるに、敵の攻撃威力はすでにわが本土に迫りつつある」と警鐘を鳴らした<ref>[[#柳田]] P63-64 出典は[[サミュエル・E・モリソン]]</ref>。
 
大本営報道部員だった[[平櫛孝]]陸軍中佐によれば、当時の大本営報道部は陸軍部と海軍部より成り、それぞれの軍から派遣された人員で独立的に運営されており、相互の交流の機会は少なかった。戦局が悪化しているにも係らず上記のような強気の発表を続ける海軍側に陸軍側は反発の念を強めていたが、陸軍側で「海軍の発表は嘘」と報道する訳にもいかず、具体的な行動を起こすことは無かった。陸軍参謀本部では「あれほどいってやっていたのに、今になって何たるざまだ」と海軍誹謗の声が満ち満ちたと言う<ref>平櫛孝「報道部のスタッフ」「大本営発表さまがわり」『大本営報道部 言論統制と戦意高揚の実際』P46,P185-186 光人社NF文庫 2006年(初出、1980年)</ref>。
 
アメリカ海軍は「太平洋艦隊は1941年12月7日の日本艦隊による訪問にトラック島で答礼の訪問をして、借りを一部返した」と発表した<ref>イアン・トール『太平洋の試練 ガダルカナルからサイパン陥落まで 下』246項</ref>。
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:* 海軍特設給水船 - 日豊丸
:* その他海軍輸送船<!--特設運送船以外も混じっている可能性--> - [[愛国丸 (特設巡洋艦)|愛国丸]]、[[清澄丸 (特設巡洋艦)|清澄丸]]{{Sfn|日本軽巡戦史|1989|p=512a|ps=清澄丸}}、[[りおでじゃねろ丸]]、瑞海丸{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=66}}、国永丸、伯耆丸、花川丸、桃川丸、松丹丸、麗洋丸、大邦丸、西江丸、北洋丸、乾祥丸、桑港丸、五星丸、山霧丸、第六雲海丸、山鬼山丸、[[富士川丸]]<!--特設航空機運搬艦から類別変更済み-->、天城山丸(航空燃料輸送に使用)
:* 陸軍輸送船 - [[暁天丸]]{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=66}}、辰羽丸{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=66}}、夕映丸、長野丸
 
;損傷艦船