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天正10年([[1582年]])、[[本能寺の変]]が起きると、妙覚寺にいた信長の嫡男・[[織田信忠|信忠]]主従はそれを知るや[[本能寺]]の信長と合流するため出撃しようとしていた。しかし、そこに村井貞勝父子らが駆けつけ、本能寺が既におちた旨を伝え、防御能力に優れた二条新御所へ移ることを進言した。信忠は誠仁親王らを二条新御所から出した上でここに籠城し、これを攻囲する[[明智光秀]]勢と奮戦するが、信忠を始め貞勝ら60余名が討ち死にし、二条新御所も隣接する妙覚寺と共に灰燼に帰した{{要出典|date=2013年8月|title=妙覚寺も「灰燼に帰した」のか。信長公記やフロイス「日本史」には新御所の焼失しか記さない}}。
 
現在は[[両替町通]][[御池通|御池]]上ルに「此附近 二条殿址」、[[室町通]]御池上ルに「二条殿御池跡」と彫られた石碑が建っている。付近には「二条殿町」「御池之町」及び本能寺の変ゆかりの「上妙覚寺町」「下妙覚寺町」の地名が残る。なおこの「御池」が現在の[[御池通]]の名前の由来となった。跡地には、変の直後、秀吉により信忠の菩提を弔うため[[大雲院]]が創建されたが、間もなく秀吉の京都改造に伴い寺町四条下ルに移転させられた。
 
この二条新御所は義昭の二条城跡に設けられたとする説があるが、[[山科言経]]が天正4年[[9月13日 (旧暦)|9月13日]](1576年[[10月5日]])に'''「右大将家二条新邸を見物」'''、翌[[9月14日 (旧暦)|14日]]([[10月6日]])には'''「武家古城を見物」'''し石垣の取り壊し・搬出されている様子を目撃したことが『言経卿記』に記されているから、明らかに別の場所にあったと考えられる。また誠仁親王当時、禁裏「上の御所」に対し「下の御所」と呼ばれていたから二条新御所は禁裏南方にあったと思われ、御所西にあった義昭の二条城跡に築かれたとするのは不自然である。さらに本能寺の変の際、信忠は陣を妙覚寺から二条御所へ移しているから両者は近傍に在ったと推測される<ref group="注釈">フロイス「日本史」には「(信忠は)宿舎にしていたその寺院は安全でなかったので、駆け付けた武士たちとともに、'''近くに住んでいた'''内裏(天皇)の息子(親王)の邸に避難した」とある。</ref>。同じ時、信忠恩顧の小沢六郎三郎は二条新御所に駆けつけたが明智軍に囲まれていたため「町通り二条(二条通のこと)」へ'''「上が」'''って御構えに駆け込んだと『信長公記』に記されているから、二条新御所は二条通南方にあったことが明らかであり、この点からも義昭の二条城とは別であったと判断できる。また、先に触れたように乱後、この地に信忠の菩提寺大雲院が建築されていることも有力な傍証となる。