「阿仏尼」の版間の差分

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為家の没後、[[播磨国]]細川荘(現[[兵庫県]][[三木市]])の相続をめぐり、正妻の子[[二条為氏]]と争い、[[1279年]](弘安2年)幕府に訴えるため[[鎌倉]]へ下った。このときの紀行と鎌倉滞在のことを記したのが『[[十六夜日記]]』である。訴訟の結果がわかる前に鎌倉で没したという説と、京都へ帰った後に没したとの説がある。「弘安百首」などに参加し、関東にある10社に勝訴を祈願して奉納した「安嘉門院四条五百首」や「安嘉門院四条百首」などもある。
 
歌論書に『夜の鶴』がある。また若い頃に書いた『うたたね』は失恋の顛末を記した日記<ref>文庫では[[次田香澄]]全訳注『うたたね』講談社学術文庫、1978</ref>である。『[[続古今和歌集]]』以下の[[勅撰和歌集]]に計48首入集しているものの、阿仏尼の孫である[[冷泉為秀]]が参画した『[[風雅和歌集]]』や阿仏尼と親しかった[[京極為兼]]が選者を務めた『[[玉葉和歌集]]』では入集数が多い一方で冷泉家と対立した[[二条家]]が選者を務めたときは入集数は極端に少なく、当時の歌壇の政治的対立状況を反映していると考えられる<ref>田渕句美子「中世・近世歌人から見た阿仏尼の和歌と歌論」日本歴史学会編集新装版 人物叢書 阿仏尼』吉川弘文館「人物叢書」、2009年11月、pp.. 233-238。 ISBN 978-4-642-05254-2 </ref>。
* 『[[続古今和歌集]]』 3首(藤原為家撰)
* 『[[続拾遺和歌集]]』 6首([[二条為氏]]撰)