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'''認識論'''(にんしきろん、{{lang-de-short|Erkenntnistheorie}}、{{lang-en-short|Epistemology}}、{{lang-fr-short|Épistémologie}})は、[[認識]]、[[知識]]や[[真理]]の性質・起源・範囲(人が理解できる限界など)について考察する、[[哲学]]の一部門である。[[存在論]]ないし[[形而上学]]と並ぶ哲学の主要な一部門とされ、'''知識論'''({{lang-en-short|theory of knowledge}})とも呼ばれる。日本語の「認識論」は独語の訳語であり、[[日本]]では[[ヒト]]・[[人間]]を考慮した場合を主に扱う。[[英語]]と[[仏語]]の語源は「[[知]]」({{lang-el-short|''epistēmē''}}) + 「合理的な言説」({{lang-el-short|''logos''}})。[[フランス]]では「エピステモロジー」という分野があるが、[[20世紀]]に[[フランス]]で生まれた[[科学哲学]]の一つの方法論ないし理論であり、[[日本語]]では「[[科学認識論]]」と訳される。
 
哲学は[[アリストテレス]]以来その領域を諸[[科学]]によって置き換えられていったが、最後に狭い領域が残り、それが大きく認識論と存在論に大別され、現在もこの分類が生きている。認識論ではヒトの外の世界を諸々の[[感覚]]を通じていかに[[認識]]していくかが問題視される。認識という行為は、人間のあらゆる日常的、あるいは[[知的活動]]の根源にあり、認識の成立根拠と普遍妥当性を論ずることが存在論である。しかし、哲学における方法論は[[思弁]]に尽きるため、[[仮説]]を立て[[実験]]によって[[検証]]するという科学的方法論は長年取り入れられることはなかった。哲学論は基本的に仮の羅列に過ぎず、単に主観的な主張であった。客観性の保証が全くない[[内観法]]が[[哲学者]]の主たる武器であった。[[19世紀]]末ごろ、認識論の一部が哲学の外に出て[[心理学]]という[[学問]]を成立させるが、初期にはもっぱら[[内観]]や[[内省]]を[[方法論]]とし、[[思弁哲学]]と大差はなかったため、のちにアームチェア心理学と呼ばれた。やがて、思弁を排し客観的、科学的方法論をもとに[[実験心理学]]が登場し、認識の一部は、心理学に取り込まれていった。[[錯覚]]現象などがその研究対象になった。実験心理学では、[[データ]]の統計的処理では科学的であったが、なぜ錯覚が生まれるかというメカニズムの解明では、仮説を立て実験データとの照合を論じてはいたものの、その仮説自体はやはり思弁に過ぎなかった。それを嫌い人間の主観を排し、[[実験動物]]を用いた観察可能な行動のみを研究対象とする一派も存在したが、人間の認識は研究対象から外された。このため、認識論の問題は比較的最近まで客観科学化されずに哲学の領域にとどまり続けた。しかし、[[脳科学]]の進歩によって急速に、認識論と存在論の2つの世界は大きく浸食されつつある<ref name="NOU">[[立花隆]]『脳を究める』([[朝日新聞社]] 2001年3月1日)</ref>。
 
== 概要 ==