「北白川祥子」の版間の差分

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[[お茶の水女子大学|東京女子高等師範学校]]を卒業<ref name="letter34-6"/>し、[[1935年]]([[昭和]]10年)[[4月26日]]、19歳のとき永久王と結婚。一男一女を出産した。永久王は、[[1940年]](昭和15年)3月に[[駐蒙軍]]に初出征し、[[9月4日]]に[[殉職]](演習中に事故死)した。3歳の[[長男]]・道久王が北白川宮を継承。さらに[[1947年]]([[昭和]]22年)[[10月14日]]に[[皇籍離脱]]となるが、姑にあたる[[成久王妃房子内親王|房子]]([[明治天皇]]皇女、[[内親王]])とともに北白川家を支えた。
 
1950年代には、長女[[島津肇子|肇子]]が[[皇太子]][[上皇明仁|明仁親王]]の『お妃候補』であるとする報道が過熱。祥子は新聞等から該当する記事を切り取り、娘の目に触れぬよう気遣っていた<ref name="wyomi1958-79">{{Cite journal |和書 |author = |title =ハッチャンの幸福~島津忠広氏と婚約した北白川肇子さん~ |journal = [[週刊読売]]|publisher = [[読売新聞社]]|date = 1958-12}} p.79</ref>。肇子が皇太子妃となることについて、房子と祥子は、積極的でも否定的でもなく「話があれば拒まない」という姿勢だったという<ref name="wyomi1958-79"/>。また、明仁親王との婚約が内定した[[上皇后美智子|正田美智子]]が、両親とともに北白川家に挨拶に来た際は、北白川家全員で正田親子を歓待している<ref name="wyomi1958-79"/>。
 
1953年(昭和28年)11月16日に発足した、[[靖国神社]]奉賛会{{efn|1998年(平成10年)に[[靖国神社崇敬奉賛会|崇敬奉賛会]]に改組された。}}の会長に就任<ref>昭和30年7月4日、[[衆議院]]海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 [http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/022/0012/02207040012008a.html]</ref>。戦後、同神社は[[単立宗教法人]]となっており、国による財政支援を受けられないにも関わらず、新規合祀や神社維持等のため多額の費用(数億円)を必要としており、奉賛会による全国的な寄付の呼びかけが行われていた。[[1959年]](昭和34年)10月4日になって、永久王は靖国神社に合祀された。