「大阪スタヂアム」の版間の差分

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1960年代半ば以降はプロ野球のテレビ中継において在京キー局の発言力が増大し、放送カードが[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]の[[読売ジャイアンツ]](巨人)戦が多くを占めるようになった。その結果、関西では唯一同じセ・リーグ所属の阪神に「巨人の対抗馬」として人気が集中、前記の経緯による南海戦の中継減少もあいまって、[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]の人気は長期低落傾向をたどった。さらに[[1970年代]]後半以降の南海の急激な弱体化で本球場の観客動員数は低迷を極めた。
 
[[南海本線]]の終点である[[ターミナル駅]]・[[難波駅 (南海)|難波駅]]南口駅前で、大阪を代表する一大[[繁華街]]・[[ミナミ]]のド真ん中という好立地<ref>もっとも親会社の親会社である南海電鉄にとっては難波は必ずしも好立地とはいえなかった。本来鉄道会社が球団経営する場合、西武における[[西武ドーム|西武ライオンズ球場(現:メットライフドーム)]]や阪神の[[阪神甲子園球場]]、近鉄の[[藤井寺球場]]のように、自社沿線の郊外地に本拠地球場を構えて運賃収入に貢献させるのが常策だが、本球場は繁華街のターミナル駅近くに構えていることから、南海電鉄以外にも[[大阪市営地下鉄]](現:[[大阪市高速電気軌道|Osaka Metro]])やライバルである[[近畿日本鉄道|近鉄線]]でも来場可能であり([[阪神なんば線]]は当時未開業)、運賃収入が見込めなかったことから、南海電鉄側でも球団の売却が労使闘争で常に槍玉に上がる状況であり、親会社である南海電鉄にとっては必ずしも好立地とはいえなかった。</ref>にも関わらず球場を管理していた大阪スタヂアム興業の社史には、本球場の年間観客動員の実数が[[1965年]]以降、南海最終年の[[1988年]]まで一度も50万人を超えなかったことが記されている(公式発表上では1988年の91万5千人が球団史上最多動員であった)。
 
南海自前の球場(運営会社は南海電鉄を含む数社が出資)だったが、[[1957年]]までは近鉄パールスも本拠地としていた。これは近鉄の[[専用球場|本来の本拠地]]だった[[藤井寺球場]]に当時ナイター設備がなかったためだが、近鉄が[[1979年]]と翌[[1980年]]に[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]に出場した際、事実上本拠地球場だった[[日本生命球場]](日生球場)の最大観客収容人数が、シリーズ開催基準の3万人以上に満たず、藤井寺球場もナイター設備が依然としてなかったため、近鉄はやむを得ず両年とも本球場を借りて日本シリーズの開催地とした(対戦相手は両年とも[[広島東洋カープ]])<ref>日本シリーズ前の[[プレーオフ制度 (日本プロ野球)|プレーオフ]]も本球場で開催した(1979、1980年とも)。</ref>。他にも[[1953年]]から[[1954年]]までセ・リーグの大洋松竹ロビンスが本拠地として(1951年から[[1952年]]までも合併前の[[松竹ロビンス]]が準本拠地として使用)、そして阪神も甲子園にナイター照明が設置([[1956年]])されるまで準本拠地としていたため、本球場の正面には南海、近鉄、阪神の球団旗をあしらった看板が掲げられていた。なおこの間、1954年7月25日の阪神対[[中日ドラゴンズ]]戦では判定と退場処分をめぐって二度にわたり紛糾、興奮した観客がそれぞれグラウンドに進入したため[[放棄試合|没収試合]]となる事件が起きた<ref>[[大和球士]]は著書『真説日本野球史7』で「難波事件」、阪神の球団史『阪神タイガース 昭和のあゆみ』では「大阪球場事件」と記している。</ref>。