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{{出典の明記|date=2016年11月}}
[[File:Takatsukasa Nobusuke with his family.JPG|thumb|300px|家族とともに(1949年)]]
'''鷹司 信輔'''(たかつかさ のぶすけ、[[1889年]][[4月29日]] - [[1959年]][[2月1日]])は[[日本]]の[[公爵]]、[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員、[[明治神宮]][[宮司]]、[[鳥類学者]]。[[日本鳥学会]]会長を務め、「鳥の公爵」と呼ばれた。
 
==生涯==
公爵で陸軍少将[[鷹司熙通]](のち[[大正天皇]]侍従長)の長子として[[東京市]][[麹町区]]に生まれる。幼時は[[昆虫採集]]を好んだが、やがて鳥類に関心が移る。
 
[[1901年]]に[[筑波大学附属小学校|高師附属小]]、[[1906年]]に[[筑波大学附属中学校・高等学校|高師附属中]]を卒業後、[[学習院高等科 (旧制)|学習院高等科]]に進み、鳥類学を志すようになる。[[1911年]]、[[東京大学|東京帝国大学]]理科大学動物学科に入学、[[飯島魁]]教授に師事。[[1912年]]、飯島および兄弟弟子の[[黒田長禮]]や[[内田清之助]]と共に日本鳥学会を設立、会頭に飯島教授を戴く。
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[[1924年]]、[[ベルギー]]で開かれた万国議員商事会議参列のため渡欧、1年半を[[ヨーロッパ]]で過ごす。[[大英博物館]]に通い、鳥三昧の日々を過ごした。
 
[[1932年]]、日本で絶滅した品種の[[サクラ]]を[[イギリス]]から逆輸入し、[[太白]]と命名。[[1935年]]から[[霞会館|華族会館]]館長、[[1940年]]から日本出版文化協会会長。[[1943年]]、[[理学博士]]号を取得。[[1944年]]、[[明治神宮]][[宮司]]となった。[[1946年]]、[[神社本庁]]統理に就任し、同年に[[華族制度]]が廃止された。その後、[[公職追放]]となった<ref>公職追放の該当事項は「日本出版文化協会会長」。({{citation
| 和書
| title = 公職追放に関する覚書該当者名簿
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}})</ref>
 
[[1959年]]2月、[[肝臓癌]]で没した。す、享年69。未刊行の原稿約1万枚が遺された。
 
== 栄典 ==
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== 家族 ==
四弟の[[鷹司信敬]]は養魚家、のち[[堺水族館|堺市立水族館]]長を務めた。妻綏子は公爵[[徳川家達]]の次女で、息子鉄道研究家の[[鷹司平通]](妻は[[昭和天皇]]三女[[鷹司和子|和子]])、孫に[[伊勢神宮]][[宮司|大宮司]]の[[鷹司尚武]]がいる。は孫(次女・章子の長男、平通の養子となる)
 
== 著作 ==