「遣唐使」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
令和元年5月20日 (月) 14:14(JST)‎‎の版へ差し戻しWP:VAN
11行目:
なお、日本は以前の[[遣隋使]]において、「天子の国書」を送って[[煬帝]]を怒らせている。遣唐使の頃には天皇号を使用しており、中国の皇帝と対等であるとしているが、唐の側の記録においては日本を対等の国家として扱ったという記述は存在せず天皇号の使用自体を伏せていたとされる。むしろ[[天平勝宝]]5年([[753年]])の朝賀において、新羅の使者と席次を争い意を通すという事件が起こる。しかし、かつての奴国王や[[邪馬台国]]の女王[[卑弥呼]]、[[倭の五王]]が中国王朝の臣下としての[[冊封]]を受けていたのに対し、遣唐使の時代には日本の天皇は唐王朝から冊封を受けていない。
 
その後、唐僧・[[維躅]](ゆいけん)の書に見える[二十年一来](20年に1度)の朝貢が8世紀ごろまでに規定化され、およそ十数年から二十数年の間隔で遣唐使の派遣が行われた。
 
遣唐使は200年以上にわたり、当時の先進国であった唐の文化や制度、そして[[仏教]]の日本への伝播に大いに貢献した。
 
== 回数 ==
回数については中止、送唐客使などの数え方により諸説ある.
*12回説:藤家禮之助
*20回説:[[東野治之]]、王勇