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1876年(明治9年)7月28日には新政府の費用を作り出すため「[[地租改正]]」条例を公布し、[[農地]]の値段を定めて豊作・凶作に関係なく[[地租]]を[[地価]]の3%と定め、土地所有者に現金で納めさせることにした。[[地主]]は土地所有を法的に認められるようになった。しかし地主と[[小作人]]の関係は変わらず、小作人はこれまで通り小作料を現物で地主に納めさせた。自作と小作農は負担がそれまでより軽くならないで苦しい立場に置かれることになった。地主は他の農民の土地を買い、それらの土地をお金に換えて資産を増やしていった。そして一部は土地を処分して資本家に変わっていった。やがて土地を耕すことはすべて小作人に任せ、お金だけ受け取って都市部で暮らす不在地主が増えていった<ref>鶴見俊輔著 『御一新の嵐』 <鶴見俊輔集・続-2> 筑摩書房 2001年 237-238ページ</ref>。徴兵令に対する不満と地租改正に反対して百姓一揆がしばしば起こり、1876年(明治9年)に[[三重県]]で発生した[[伊勢暴動]](東海大一揆)、茨城県などの[[地租改正反対一揆]]などを受けて翌年地租率を2.5%に引き下げざるを得なかった。その結果、[[地租]]を納める[[農民]]の負担は江戸時代のおおよそ20%減ることになった。
 
文化面では1872年(明治5年)11月に[[太陽暦]]を採用、[[文明開化]]の風潮が高まり、[[福澤諭吉]]・[[西周 (啓蒙家)|西周]]・[[森有礼]]・[[中村正直]]らが'''[[明六社]]'''を結成し、著作や講演会を通じて近代的な学問・知識を日本国内に広めたほか、[[中江兆民]]ら新しい思想を説く[[啓蒙思想]]家も現れた。[[印刷]]技術の進歩により、日本最初の日刊新聞「[[横浜毎日新聞]]」を始め[[新聞]]が次々と創刊された。全ての国民が教育を受けられるよう学校制度が整備され、1872年(明治5年)「[[学制]]」を公布して全国に学校が設立された。新政府では[[寺島宗則]]・[[神田孝平]]・[[柳川春三]]といった学者を招聘して運営に当たらせた。教育機関の整備では[[大学寮]]をモデルにした「学舎制」案を[[玉松操]]・[[平田鐵胤]]・[[矢野玄道]]らに命じて起草させた。[[宗教]]の面では[[神道]]の国民教化を図ろうとして[[神仏分離令]]を出した。これを受け、[[日本の仏教]]に根付いていた[[寺請制度]]に不満を持っていた者も加わり、[[廃仏毀釈]]が行われる事態となる。[[1870年]](明治3年)[[大経宣布]]を行い祝祭日を制定した。1873年(明治6年)には天皇の誕生日を[[天長節]](現在の[[天皇誕生日]])、[[神武天皇]]が即位した日([[紀元前660年]][[2月11日]])を[[紀元節]](現在の[[建国記念の日]])とした。1873年(明治6年)に[[キリスト教]]を解禁。後の大日本帝国憲法で定められた[[政教分離原則|政教分離]]という制度的要請から、[[国家神道]]([[神社非宗教論]])に基づく宗教行政に転換していった。
 
明治新政府の近代化のための変革はあまりにも性急で、国民生活の実情を無視していた点も多かった。特に、[[廃藩置県]]と[[徴兵令]]は士族の武力独占を破り、[[御親兵]]は[[近衛兵]]と改称され、中央集権を企図した地方行政制度である[[大区小区制]]は、従来の地方自治を無視して中央の命令の伝達と施行しかしない機関を設けたため極めて不評で、地方自治をある程度尊重した[[郡区町村編制法|郡区町村制]]に短期間で改められている。新政府の枢要な地位はほとんど[[薩長土肥]]の[[藩閥]]人物で構成されていたため全国の[[士族]]は特権を奪われ、経済的にも行き詰った。政府に対する士族の不満が高まった結果、[[民撰議院設立建白書]]を発端に[[士族反乱]]・[[自由民権運動]]が起こり、ついには1874年(明治7年)に[[岩倉具視]]暗殺未遂事件([[喰違の変]])が勃発した。