「ケデロンの谷」の版間の差分

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ヘブライ語聖書によると、[[ダビデ|ダビデ王]]は[[アブサロム]]の反乱の際、この谷を通って都落ちしたという。
 
旧約聖書の王たちの時代において、ケデロンの谷は王たちがその一帯の土地を所有し、少なくとも部分的には「王の庭」と同一視されていた<ref name="AdlerMarcus" />。「王の谷」という名は、ケデロンの谷の西斜面、オフェルの丘(旧市街)の南に位置する「[[ダビデの町]]」のダビデの宮殿のすぐ東にあるという位置関係に由来するのかもしれない<ref>Asher, Adolf, trans. and ed. The Travels of Benjamin of Tudela. Vol. 1, Text, Bibliography, and Translation; vol 2, Note and Essays. New York: “Hakesheth” Publishing Co., 1840.</ref>。しかしケデロンの谷の上方が、アブサロムが自分の記念碑([[サムエル記]]下18:18、現在のアブサロムの塔とは無関係)を建てたという「王の谷」にあたるかどうかは疑わしい。聖書はこの点を明確に同定しておらず、ケデロンの谷から砂漠へかなり下ったエイン・ロゲルとの関係で推察されるだけである<ref>Kloner, Amos, and Boaz Zissu. The Necropolis of Jerusalem in the Second Temple Period. Leuven: Peeters, 2007.</ref>。
 
[[歴代誌]]下20:26によると、[[ヨシャファト|ヨシャファト王]]がイスラエルの敵を倒したと考えられるのは、この谷である。