「斯波氏」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
58行目:
この間、6代将軍義教の時代([[永享]]年間)に'''[[御一家]]'''制度が整備されたとされる。「御一家」は足利一門の中でも家格の高い[[吉良氏]]・[[石橋氏]]・[[渋川氏]](京都家)の三氏を三管領家(三職)と同格に遇し(一説に吉良氏は三職に優越するという)、かつ後世には足利将軍家断絶の際にはその継承権を持っていたとの一種の伝承がささやかれた家格であった。三氏のうち、石橋氏は足利尾張家の分家筋、渋川氏も弟筋の同族なので、武衛家の家格も御一家相当の高さがあり、実際に室町殿の[[書札礼]]を見る限り、吉良氏はもちろんのこと[[堀越公方]]家などの将軍連枝と同じ書札礼(「'''状如件'''」の書止文言)を適用され、前述の通り同時代の史料のほとんどで「斯波」の名字は現れず「武衛」または「勘解由小路武衛」と記されるなど(なお吉良氏は「吉良」と名字で記述される)、戦国後期に至るまで室町幕府体制下では別格の扱いであった{{Sfn|小久保嘉紀|2007|p={{要ページ番号|date=2017年6月}}}}。それにもかかわらず三職に留められたのは、政治的に非力な御一家と異なって勢力の大きい[[鎌倉公方]]足利氏と武衛家を将軍家継承の可能性から排除するためであったとも考えられる{{Sfn|谷口|2012|p={{要ページ番号|date=2017年6月}}}}。
 
また、鎌倉公方や管領畠山氏・細川氏を含む諸侯が将軍から[[偏諱]]を与えられる場合、通常は[[諱]]の下の一字を賜るのであるが、武衛家の場合は御一家と同様に将軍家代々の[[通字]]である「'''義'''」字を賜る<ref>『[[満済准后日記]]』永享5年11月30日条に「彼家(武衛家)ニハ毎度'''上御字義'''ヲ被下歟。(中略)任先例'''上御字'''ヲ可被下云々。」とある。</ref>{{Efn|なお、『満済准后日記』永享5年11月30日条は7代義淳の危篤によって急ぎ還俗することになった瑞鳳(義郷)の諱選定の記事であるが、この時に下の字(この場合は足利義教の「教」の字)を与えられる可能性もあったという。}}のを慣例としており、周囲からも「将軍の家臣」では無く「将軍の一族」<ref>『[[薩戒記]]』応永32年11月20日条の義淳嫡男である義豊の元服記事にて、義豊を指して「'''入道殿(足利義持)御一族也'''」としている。義豊と同時に元服を行っ同じ三職家の[[畠山持富]]([[畠山満家]]3男)に対してはそのような記載はない</ref>と見られていたと思われる。これも武衛家が御一家と同等以上の高い待遇を受けていたことを示している。
 
義健没後、一門である大野斯波家からの[[養子縁組|養子]][[斯波義敏|義敏]]と、同族渋川氏出身の[[斯波義廉|義廉]]とが家督を巡って争った([[武衛騒動]])。この争いや将軍家・畠山氏の家督相続が原因となって[[応仁]]元年([[1467年]])の[[応仁の乱]]が起きる。義廉は西幕府の管領として西軍の主力となった。一方東軍に属した義敏も越前に下ってその一円支配を目指したが、越前守護代の朝倉氏に守護職を奪われ、また遠江も[[駿河国|駿河]]守護[[今川氏]]に侵食され、尾張で義敏の子孫が守護代の織田氏に推戴されて存続するのみとなった。