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江戸時代中期の[[元禄]]年間([[1688年|1688]]-[[1703年]])には、[[歌舞伎]]、[[寄席]]、相撲の看板はいずれも[[御家流]]([[青蓮院]]流、[[尊円流]]ともいい[[尊円法親王]]の[[書法]]を伝えたもの)の文字で肉太に記されていた。[[1757年]]([[宝暦]]7年)の江戸最初の番付もそれで書かれているが、[[寛政]]年間([[1789年|1789]]-[[1800年]])には現在の番付の原型にほぼ落ち着いている。以降、[[幕末]]から[[明治]]にかけて横棒(横画)の運筆が太くなるなど、歌舞伎([[勘亭流]])や寄席([[江戸文字|寄席文字]])の番付とは一線を画するようになった。その名を番付の[[版元]]根岸家(江戸時代の[[三河屋]])にちなみ「'''根岸流'''」と呼ばれ、現在では主に「[[根岸流 (書風)|相撲字]]」と呼ばれる独特な[[書体]]で書かれる。
 
; 戦後、番付表を書いてきた行司の歴代
*[[木村庄之助 (24代)|5代式守鬼一郎]]([[式守伊三郎|初代式守伊三郎]]時代~[[1951年]]9月場所)
*[[式守勘太夫 (5代)|5代式守勘太夫]]([[1952年]]1月場所~[[1966年]]9月場所、[[1958年]]3月場所を最後に行司(三役格)を引退するが、その後も6代[[鏡山 (相撲)|鏡山]]勘太夫として停年(定年。以下同)退職するまで番付を書いた。[[読売新聞東京本社]]発行の[[大相撲 (雑誌)|雑誌「大相撲」]](現在は刊行せず)の表紙題字[http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-5c-07/naokichivla/folder/973949/73/61532173/img_0]で有名)