「藤原範子」の版間の差分

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父範兼は範子ら子供たちが幼いうちに死去したため、弟妹と共に叔父の[[藤原範季]]に養育された(範季は父範兼の養子になっているため義兄でもある)。[[平清盛]]の義弟にあたる能円と結婚して[[承安 (日本)|承安]]元年([[1171年]])に娘の在子が産まれる。[[治承]]4年([[1180年]])7月、[[高倉天皇]]の第4皇子尊成親王(のちの[[後鳥羽天皇]])が生まれると、妹兼子と共に乳母となり、親王の養育にあたった。
 
[[寿永]]2年([[1183年]])7月、夫能円は[[安徳天皇]]・平家一門と共に都を落ちた。『[[平家物語]]』では能円が妻と尊成親王を連れて西国に落ちようとしたが、範子の弟である[[高倉藤原範光]]が引き留めて能円だけが落ちていったとする話を載せている。
 
都では安徳天皇に代わって新たな帝の選定が行われ、[[後白河天皇|後白河法皇]]の選定により範子が乳母を務める尊成親王が擁立され、後鳥羽天皇となる。天皇の乳母となった範子に[[源通親]]が接近し、範子を妻に迎え、範子は[[文治]]3年([[1187年]])に通親の三男[[久我通光|通光]]を産んだ。