「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
58行目:
地方公演で電車に降り損ねた尾藤イサオの代役で唄ったのをきっかけにグループ・サウンズとしての活動が始まったとされていたが、小田の証言で「バックバンドとしての紅白出演(1965年)に飽き足らなくなった井上が、『バックバンドは所詮裏方である。僕らは唄ってこそ本物のグループになれるんだ。』とバンドの方向性を見直す進言をし、ザ・ヒットパレードのディレクターであった椙山浩一(のちの作曲家[[すぎやまこういち]])に相談をもちかけ、CBSコロムビアからのデビューに至った。」と詳細な経緯が明らかになっている。本格的なデビューに先駆けてブルー・コメッツはマネージャー[[川村龍夫]]の助言により「[[デューク・エイセス]]」の当時のトップ・テナー、和田昭治にコーラスの猛特訓を受ける。
 
[[1966年]]に[[日本コロムビア]](レーベルは洋楽部門の[[コロムビア・レコード#商標|CBSコロムビア]]<ref group="注釈">1968年6月30日のシングル「草原の輝き」リリース後に日本コロムビアからCBSレーベルが離脱したため、それ以降の1972年までの作品は「(洋楽レーベルとしての)COLUMBIA」(L盤)の日本ローカル盤からのリリースとなった。</ref>)から発売された(ボーカル入りの楽曲としては)デビュー曲となる英語盤の青い瞳「Blue Eyes」が10万枚、日本語盤の「[[青い瞳]]」が50万枚のヒットになった。日本コロムビアは当時5億円の借金を抱えていたが、ブルー・コメッツの偉業で窮地を脱した。66年には彼らは、[[ザ・ドリフターズ]]や[[内田裕也]]らとともに[[ビートルズ]]の日本公演<ref>http://music-calendar.jp/2017062901</ref>の前座として出演。その際彼らはビートルズとは別よりやや低め位置に設けられたステージで井上忠夫作曲のビートルズ讃歌「ウェルカム・ビートルズ」を歌った。ビートルズのメロディーやハーモニーを重視した曲作りは彼らを経て日本独特のグループサウンズへと受け継がれた<REF>朝日新聞学芸部編『戦後芸能史物語』</REF>。その後も「[[青い渚]]」「[[何処へ (曲)|何処へ]]」など順調にヒットを連ねていき、[[1967年]]に発売された「[[ブルー・シャトウ]]」は自身最大の150万枚の大ヒットを記録し、この年の[[第9回日本レコード大賞]]を受賞。名実ともに「日本一のグループ」になった。
 
「グループ・サウンズ=不良」のイメージが強かった[[1960年代]]当時、数多のグループ・サウンズの中で[[ザ・ワイルドワンズ]]と共に[[日本放送協会|NHK]]への出演が許され、[[NHK紅白歌合戦]]に[[第17回NHK紅白歌合戦|第17回]](1966年)から3回連続(前年のザ・ピーナッツのバックを含めれば4回連続)で出場した。これはまず何より、他のグループ・サウンズよりも音楽的水準が高かったことである。全てのメンバーは読譜力に優れ、作編曲ができ、卓越した楽器演奏とアンサンブル、緻密なコーラス・ワークで、あらゆるジャンルを高い完成度で演奏できるバンドだった