「依田和夫 (都市計画家)」の版間の差分

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昭和53年から建設省に戻り、都市交通調査室で街路事業調査の体系を確立。
また国際協力にも参加。<ref>例えば[http://open_jicareport.jica.go.jp/pdf/10457125.pdf]など</ref><ref>マニラ都市圏交通計画予備調査に参加して(海外情報):道路 (365), 197107</ref><ref>カイロ,テヘラン寸描(海外報告):新都市 32(11) 7811</ref>
区画整理課長時代には事業を促進するための各種事業制度の改善にも尽力。昭和57年に街路課長<ref>[https://www.city.nagaoka.niigata.jp/elibrary/kouhou/nagaoka/file/s5801.pdf]</ref>に就任すると区画整理課時代から引き続いて沿道区画整理型街路事業制度を新設、幹線道路沿線で発生する環境問題を沿道土地利用の更新を同時に考慮できる方式の適用の促進を図る。この時期京都の山陰本線連続立体高架事業などや、また20年来懸案となっていた北海道小樽臨港線事業について担当課長として事業費の重点投入の他、アーバンデザイナーとして周囲の環境にマッチした道路を完成させ、現在の小樽の活性化の基礎を築く。<ref>飯塚 理恵:形を変えて受け継がれる小樽のシンボル「小樽運河」 : 北海道小樽市 (特集 土木施設の転用): 建設コンサルタンツ協会会誌 (282), 10-13, 201901 これは土木の行政プランナーとして初めてのアーバンデザイナーの誕生と言っても過言ではない(黒川(2002年)</ref><ref>本間 喜代人「小樽運河保存問題の攻防」文化評論 (287), p168-174, 198502</ref><ref>伊藤 敦:埋め立てか,保存か--北海道・小樽運河 (環境問題を考える) -- (環境をめぐる様々な運動とその報道課題) 新聞研究 (399), 198410</ref>
 
昭和60年には大臣官房技術審議官となり、<ref>[https://www.machinami.or.jp/pdf/machinami/machinami024_11.pdf まちづくり設計競技 募集概要 - 住宅生産振興財団]</ref><ref>[http://www.jtpa.or.jp/contents/pdf/toshi10.pdf 都市と交通]建設省都市局街路課編集協力 - 日本交通計画協会</ref>多くの後進の水準向上に努める傍ら、昭和56年から平成5年まで東京大学で、また昭和57年から59年まで東京工業大学で非常勤講師を勤め、教育にも傾注。昭和63年6月には東京大学より工学博士を授与。また日本都市計画学会より学会賞が授与される。