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[[ファイル:Yoshida en route to San Francisco 1951.jpg|thumb|200px|[[1951年]]、[[サンフランシスコ講和会議]]へ向かう機上にて[[白洲次郎]](左)と]]
=== 性格・特徴 ===
*癇癪持ちの頑固者であり、また洒脱かつ辛辣なユーモリストとしての一面もあった。公私にわたりユニークな逸話や皮肉な名台詞を多数残している。また、吉田の行動は当時の新聞の[[風刺漫画]]の格好の標的になった。実際に吉田が退陣した時には、ある新聞の風刺漫画に、大勢の漫画家が辞める吉田に頭を下げる(風刺漫画のネタになってくれた吉田に感謝を表明している)漫画が描かれたほどである。
*耕余義塾時代、塾生が『養春』という雑誌をだしていたが、その雑誌に吉田は「帰んなんとて家もなく 慈愛受くべき父母もなく みなし児[[書生]]の胸中は 如何に哀れにあるべきぞ」という歌を寄稿したことがあり、複雑な家庭に育ったがゆえの孤独さをしのばせている。同塾は全寮制で、吉田は約1年半寄宿舎に暮らした。室長だった渡辺広造によると、吉田は乱暴な寮生にいじめられることも多かったが、じっと歯をくいしばってがまんしていたという{{Sfn|アサヒグラフ|1967|p=73}}。
 
*吉田は人の名前を覚えるのが苦手だったらしく、自党の議員の名前を間違えたりすることもしばしばあった。[[昭和天皇]]に閣僚名簿を報告する際に、自分の側近である[[小沢佐重喜]]の名前を間違えて、天皇から注意を受けたことがある。
耕余義塾時代、塾生が『養春』という雑誌をだしていたが、その雑誌に吉田は「帰んなんとて家もなく 慈愛受くべき父母もなく みなし児[[書生]]の胸中は 如何に哀れにあるべきぞ」という歌を寄稿したことがあり、複雑な家庭に育ったがゆえの孤独さをしのばせている。同塾は全寮制で、吉田は約1年半寄宿舎に暮らした。室長だった渡辺広造によると、吉田は乱暴な寮生にいじめられることも多かったが、じっと歯をくいしばってがまんしていたという{{Sfn|アサヒグラフ|1967|p=73}}。
 
吉田は人の名前を覚えるのが苦手だったらしく、自党の議員の名前を間違えたりすることもしばしばあった。[[昭和天皇]]に閣僚名簿を報告する際に、自分の側近である[[小沢佐重喜]]の名前を間違えて、天皇から注意を受けたことがある。
 
=== 尊皇家・臣茂 ===
*尊皇家であり、終戦後、[[昭和天皇]]が戦争責任をとっての退位を申し出た時も吉田が止め、国民への謝罪の意を表明しようとした時も吉田が止めたという{{Sfn|原彬久|2005}}。
*[[1952年]](昭和27年)11月の[[上皇明仁|明仁親王]]の[[立太子の礼|立太子礼]]に臨んだ際にも、昭和天皇に自ら「'''臣茂'''」と称した。これは「時代錯誤」とマスコミに批判されたが、吉田は得意のジョークで「'''臣'''は総理大臣の臣だ」とやり返した。
 
[[1952年]](昭和27年)11月の[[上皇明仁|明仁親王]]の[[立太子の礼|立太子礼]]に臨んだ際にも、昭和天皇に自ら「'''臣茂'''」と称した。これは「時代錯誤」とマスコミに批判されたが、吉田は得意のジョークで「'''臣'''は総理大臣の臣だ」とやり返した。
 
=== 住居 ===
*[[幣原内閣]]で外相に就任した際、東京・[[芝 (東京都港区)|芝]][[白金台]]の[[東京都庭園美術館|旧朝香宮邸]]を外務大臣公邸とした。これは[[臣籍降下#昭和22年10月14日の皇籍離脱|傍系11宮家の皇籍離脱]]に伴い、旧皇族の経済的困窮を慮った[[昭和天皇]]の要請と言われる。その後、首相となった後も吉田は外相を兼務し、外相公邸に居座り続けたため、外相公邸が事実上の総理公邸になった。結局一時の下野を除き、第5次内閣の総辞職で辞任するまで外相公邸に住み続けた。実際、吉田は半ば冗談で「外相を兼務したのはこの公邸に住んでいたかったからさ」と公言していた。
*佐藤栄作が内閣総理大臣であった頃に吉田を訪ねると、羽織・袴で出迎え、佐藤を必ず上座に座らせ、「佐藤君」ではなく「総理」と呼びかけた。このため、吉田の容態が芳しくない時には、佐藤夫妻は容易に吉田を見舞うこともできなくなってしまったという{{Sfn|佐藤寛子|1985|p=133-134}}。
 
*[[首相]]退陣後は[[神奈川県]][[大磯町]]で暮らした。政界への影響力を保持し、国内外の要人が訪れることも多かった。豪壮な旧吉田邸は本人の没後も外交の舞台となり、1979年の日米首脳会談の会場となった。2009年に火災で全焼したが、寄付金により再建され、2017年4月1日に大磯町郷土資料館別館として公開された<ref>[http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f6599/p1109276.html 大磯城山公園「旧吉田茂邸地区」が全面開放しました]神奈川県庁ホームページ(2017年6月6日)</ref>。同年10月23日には、[[河野太郎]]外相と訪日した[[ミクロネシア連邦]]大統領との懇談・夕食会場として使われた<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/a_o/ocn/fm/press3_000334.html 河野外務大臣とクリスチャン・ミクロネシア連邦大統領との懇談及び夕食会]外務省報道発表(2017年10月23日)</ref>。
佐藤栄作が内閣総理大臣であった頃に吉田を訪ねると、羽織・袴で出迎え、佐藤を必ず上座に座らせ、「佐藤君」ではなく「総理」と呼びかけた。このため、吉田の容態が芳しくない時には、佐藤夫妻は容易に吉田を見舞うこともできなくなってしまったという{{Sfn|佐藤寛子|1985|p=133-134}}。
 
[[首相]]退陣後は[[神奈川県]][[大磯町]]で暮らした。政界への影響力を保持し、国内外の要人が訪れることも多かった。豪壮な旧吉田邸は本人の没後も外交の舞台となり、1979年の日米首脳会談の会場となった。2009年に火災で全焼したが、寄付金により再建され、2017年4月1日に大磯町郷土資料館別館として公開された<ref>[http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f6599/p1109276.html 大磯城山公園「旧吉田茂邸地区」が全面開放しました]神奈川県庁ホームページ(2017年6月6日)</ref>。同年10月23日には、[[河野太郎]]外相と訪日した[[ミクロネシア連邦]]大統領との懇談・夕食会場として使われた<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/a_o/ocn/fm/press3_000334.html 河野外務大臣とクリスチャン・ミクロネシア連邦大統領との懇談及び夕食会]外務省報道発表(2017年10月23日)</ref>。
 
=== 趣味・嗜好 ===
*吉田は落語が好きで、[[春風亭柳橋 (6代目)|六代目春風亭柳橋]]を贔屓にしていた。さすがに自分から寄席に行けないので、しばしば柳橋を官邸に呼び、当時珍しかったテレビを高座代わりにして一席演じさせていた。孫である[[麻生太郎]]は、吉田に連れられて鈴本演芸場に行くエピソードを著書で紹介している。
*大の[[葉巻きたばこ|葉巻]]好きで知られ、戦中戦後の輸入自体が不如意な時代にも、戦前に大量に買い溜めしておいた本場物の[[ハバナ (タバコ)|ハバナ]]を喫っていたほどであったが、サンフランシスコ講和条約の締結に至るまでの交渉が難航していた時期には葉巻を断っていたという。晩年には葉巻を止め、フィルター付き紙巻きの[[ハイライト (タバコ)|ハイライト]]に切り替えた。
 
*吉田は駐英大使時代にイギリス流の生活様式に慣れ、貴族趣味に浸って帰国した。そのため、官僚以外の人間、共産党員や党人などを見下すところがあった。その彼のワンマンぶりがよく表れているのが、彼の言い放った暴言・迷言の数々である。もっとも、相手が礼儀の正しい人なら、その身分がどうであろうと丁寧に振舞ったとも言われる。吉田は典型的な明治時代の人間であり、彼と親しかった[[白洲次郎]]は、自身の随想の中で「吉田老ほど、わが国を愛しその伝統の保持に努めた人はいない。もっとも、その『伝統』の中には実にくだらんものもあったことは認めるが」と語っている。
大の[[葉巻きたばこ|葉巻]]好きで知られ、戦中戦後の輸入自体が不如意な時代にも、戦前に大量に買い溜めしておいた本場物の[[ハバナ (タバコ)|ハバナ]]を喫っていたほどであったが、サンフランシスコ講和条約の締結に至るまでの交渉が難航していた時期には葉巻を断っていたという。晩年には葉巻を止め、フィルター付き紙巻きの[[ハイライト (タバコ)|ハイライト]]に切り替えた。
 
吉田は駐英大使時代にイギリス流の生活様式に慣れ、貴族趣味に浸って帰国した。そのため、官僚以外の人間、共産党員や党人などを見下すところがあった。その彼のワンマンぶりがよく表れているのが、彼の言い放った暴言・迷言の数々である。もっとも、相手が礼儀の正しい人なら、その身分がどうであろうと丁寧に振舞ったとも言われる。吉田は典型的な明治時代の人間であり、彼と親しかった[[白洲次郎]]は、自身の随想の中で「吉田老ほど、わが国を愛しその伝統の保持に努めた人はいない。もっとも、その『伝統』の中には実にくだらんものもあったことは認めるが」と語っている。
 
=== 車における英国趣味 ===
*英国趣味は自家用車にも及んだ。駐英大使時代、英国の権化のような高級車、[[ロールス・ロイス]]の中型モデル「[[ロールス・ロイス・25/30HP|25/30HP]]」1937年式でフーパー製サルーンボディを架装した個体を私品として購入、帰国時には日本に持ち帰り、戦時中に政財界で奨励された皇室・軍等への「自家用車献納」もせず手元に留め置いた。吉田はこの25/30HPロールスを戦後も長く愛用、1950年代には同車をイギリスに送って[[オーバーホール]]してまで使い続けた。
*一方、1960年代に入り日本の自動車輸入制限が緩和された際には、首相時代、個人的に[[西ドイツ]]首相[[コンラート・アデナウアー]]と個人的に交わした「貴国復興の暁にはドイツ車を購入する」という旧約から、当時のドイツ製最高級車[[メルセデス・ベンツ]]「300SE(W111)」を購入、その旨の電報をアデナウアーに送っている。いずれも専属運転手の乗務により吉田の足として用いられたが、両車とも吉田没後は[[麻生太賀吉]]に引き継がれてのち、日本国内の自動車愛好家に譲られ、2000年代に至っても自走可能なコンディションで保管されている<ref>{{Cite web|url=http://response.jp/article/2008/10/31/115840.html|title=吉田茂の愛車メルセデスベンツを特別展示 11月9日まで|publisher=[[Response.]]|accessdate=2016-04-08}}</ref>。特にロールス・ロイスは、吉田に関連するテレビドラマやイベントでも公開され、公衆の目に触れる機会が多い。
 
一方、1960年代に入り日本の自動車輸入制限が緩和された際には、首相時代、個人的に[[西ドイツ]]首相[[コンラート・アデナウアー]]と交わした「貴国復興の暁にはドイツ車を購入する」という旧約から、当時のドイツ製最高級車[[メルセデス・ベンツ]]「300SE(W111)」を購入、その旨の電報をアデナウアーに送っている。いずれも専属運転手の乗務により吉田の足として用いられたが、両車とも吉田没後は[[麻生太賀吉]]に引き継がれてのち、日本国内の自動車愛好家に譲られ、2000年代に至っても自走可能なコンディションで保管されている<ref>{{Cite web|url=http://response.jp/article/2008/10/31/115840.html|title=吉田茂の愛車メルセデスベンツを特別展示 11月9日まで|publisher=[[Response.]]|accessdate=2016-04-08}}</ref>。特にロールス・ロイスは、吉田に関連するテレビドラマやイベントでも公開され、公衆の目に触れる機会が多い。
 
=== 政治姿勢 ===
*駐イタリア大使時代に[[ベニート・ムッソリーニ]][[イタリアの首相|首相]]に初めて挨拶に行った際に、イタリア外務省からは吉田の方から歩み寄るように指示された(国際慣例では、ムッソリーニの方から歩み寄って歓迎の意を示すべき場面であった)。だが、ムッソリーニの前に出た吉田は国際慣例どおりに、ムッソリーニが歩み寄るまで直立不動の姿勢を貫いた。ムッソリーニは激怒したものの、以後吉田に一目置くようになったと言われている。
*首相時代、利益誘導してもらうべく、たびたび地元[[高知県]]から有力者が陳情に訪れたが、その都度「私は日本国の代表であって、高知県の利益代表者ではない」と一蹴した。
 
首相時代、利益誘導してもらうべく、たびたび地元[[高知県]]から有力者が陳情に訪れたが、その都度「私は日本国の代表であって、高知県の利益代表者ではない」と一蹴した。
 
== 逸話 ==