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[[File:Roosta - Gilan.jpg|thumb|right|200px|ギーラーン共和国の建国を報じる6月27日付『ロースタ』。<br />見出しにロシア語で「赤色イラン」、下段にペルシア語で「ミールザー・クーチェク万歳」とある。]]
[[ファイル:AyyubidGreatest.png|thumb|150px|アイユーブ朝の最大支配領域(1188年)]]
'''イラン・ソビエト社会主義共和国'''(イラン・ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこく、{{lang-fa|جمهوری شوروی سوسیالیستی ایران}})、通称'''[[ギーラーン共和国]]'''(ギーラーンきょうわこく、{{lang|fa|جمهوری گیلان}})は、[[1920年]]から翌[[1921年]]まで、[[イラン]]北部の[[ギーラーン州]]に存在した[[社会主義国家]]である。
'''[[アイユーブ朝]]'''({{lang-ar|الأيوبيون}}、[[クルド語]]:دەوڵەتی ئەییووبی )は、[[12世紀]]から[[13世紀]]にかけて[[エジプト]]、[[歴史的シリア|シリア]]、[[イエメン]]などの地域を支配した [[スンナ派]]の[[イスラム王朝|イスラーム王朝]]。シリアの[[ザンギー朝]]に仕えた[[クルド人|クルド系]]軍人の[[サラーフッディーン]](サラディン)を王朝の創始者とする。
 
当初の政権は、1920年6月に[[赤軍]]の庇護のもと、{{仮リンク|イラン共産党 (戦間期)|label= イラン共産党|fa|حزب کمونیست ایران (دهه ۱۹۲۰)}}と[[民族主義]]的な{{仮リンク|ジャンギャリー運動|fa|جنبش جنگل}}の連立により発足した。しかし、ほどなく左派の[[クーデター]]により連立は崩れ、政権は強固な[[共産革命]]路線へと移った。ところが、時を同じくして[[モスクワ]]の[[ボリシェヴィキ]]党中央は、東方の情勢安定化のために[[テヘラン]]政府との融和を模索するようになった。党中央から切り捨てられる形となったイラン共産党は、なおも革命路線の堅持を掲げて政権の再統一を図った。だが、1921年11月、テヘラン政府軍による掃討作戦によってギーラーン政権は壊滅した。
[[1169年]]にエジプトを支配する[[ファーティマ朝]]の宰相に就任したサラディンは、ザンギー朝から事実上独立した政権を樹立する。サラディンは[[アッバース朝]]の[[カリフ]]の権威を認め、支配の正統性を主張してマリク(王)を称した。ファーティマ朝の実権を握ったサラディンは独自の政策を立案したため、後世の歴史家はサラディンが宰相の地位に就いた1169年をアイユーブ朝が創始された年と見なしている。サラディンの死後、国家の領土は各地の王族たちによって分割され、[[ダマスカス]]、[[アレッポ]]、[[ディヤルバクル]]には半独立の地方政権が成立した。[[アル=アーディル]]、[[アル=カーミル]]、[[サーリフ|アッ=サーリフ]]ら有力な君主の時代には一時的に統一が回復され、彼らは[[カイロ]]で政務を執った。[[1250年]]に[[マムルーク]](軍人奴隷)のクーデターによってカイロのアイユーブ家の政権は滅亡し、シリアに残った地方政権も1250年代後半から中東に進出した[[モンゴル帝国]]とマムルーク朝の抗争の過程で消滅した。
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