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<!-- [[ファイル:Rename me, please!Mt.jpg|thumb|250px|right|[[富士山本宮浅間大社]] 富士山頂上奥宮]] -->
本記事'''富士登山'''(ふじとざん)では[[富士山]]への[[登山]]に関して解説する。
 
==概要==
; 歴史
:[[ファイル:Fuji pilgrim hokusai.jpg|thumb|250px|江戸時代の富士登山。浮世絵「冨嶽三十六景 諸人登山」。北斎画。]]
: 富士山は[[神体山]](霊山、霊峰)として古来崇められ、登山は[[山岳信仰]]の一環としての歴史が長い。[[伝説]]では[[飛鳥時代]]、[[聖徳太子]]が乗[[馬]]して山頂に至り<ref>[https://mainichi.jp/articles/20170812/ddl/k19/040/062000c 聖徳太子騎馬像、8合目山小屋に 富士山/山梨]『毎日新聞』朝刊2017年8月12日(山梨県版)</ref>、[[役小角]]が[[流刑]]先の[[伊豆大島]]から海上を歩いて富士山頂に通ったとされる。[[平安時代]]の貴族で学者の[[都良香]]が記した『[[富士山記]]』には[[富士山_(代表的なトピック)|富士山]]頂上の実情に近い風景描写がある。これは、良香本人が登頂、または実際に登頂した者に取材しなければ知り得ない記述であり、富士登山の歴史的記録として重要である。[[鎌倉時代]]には[[村山修験]]による修行のための登山が確立し、既に現在につながる4つの登山口があった。[[明応]]9年([[1500年]])の妙法寺『勝山記』によれば、[[室町時代]]にはすでに修行ではなく参拝のための登山が確立しており、[[江戸時代]]中期以降には関東地方を中心に新宗教である[[富士講]]が流行し、一般人による信仰目的の登山が増加した。観光目的の登山は特に西洋の登山文化が導入された[[明治]]期以降、特に[[中央線]]の開通以降に盛んになった<ref>[http://www.fujiyama-navi.jp/fujitozan/appeal/page/tozan/ 毎夏約30万人を魅了する富士登山|富士山に登ろう]</ref>。
: 富士山はかつて[[女人禁制]]とされていた<ref>[http://www.iwata-shoin.co.jp/bookdata/ISBN978-4-87294-690-1.htm 竹谷靱負『富士山と女人禁制』(岩田書院)]</ref>が、江戸時代に登山客が増えると二合目、三合目、期間限定で五合目などと徐々に解禁されてゆき、江戸時代後期になると[[天保]]3年([[1832年]])に女性では初めて[[小谷三志|高山たつ]]が登頂<ref>[https://www.fujisan-net.jp/data/article/1041.html 富士山に初めて登った日本人女性は変装していた|富士山NET]</ref>。外国人初の登頂者は英国公使[[ラザフォード・オールコック]]([[万延]]元年([[1860年]])7月)、初の外国人女性登頂者は英国公使[[ハリー・パークス]]夫人([[慶応]]3年([[1867年]])10月)である<ref>[http://www.cbr.mlit.go.jp/fujisabo/jimusyo/fujiazami/fujiazami_64/fa64-2.html ふじあざみ64号(2)|富士砂防事務所]</ref>。
 
; 登山期間
: 富士登山の期間は、山開きの7月1日〜9月14日(山梨県側)もしくは7月10日〜9月10日(静岡県側)である<ref name=official/>。残雪の多い年は7月中旬まで登山道に雪が残り、ルートの開通が山開きに間に合わないことがしばしばある。日本最高峰である富士山の地形や気候は後述するように非常に厳しく、'''この期間外は、万全な準備をしない者の登山が原則禁止されている<ref name=guideline>[http://www.fujisan-climb.jp/risk/guidelines.html 富士登山における安全確保のためのガイドライン|富士登山オフィシャルサイト]</ref>。'''特に'''積雪期・残雪期の無謀ともいえる登山は自殺に近い行為である<ref name=guideline/>。'''
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; 気温
: 富士山頂は[[ケッペンの気候区分]]で[[ツンドラ気候]]に分類されるほど寒冷である。最暖月の8月の平均気温は6℃で、最寒月の1月の平均気温はマイナス18℃である<ref>[http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/nml_sfc_ym.php?prec_no=50&prec_ch=%90%C3%89%AA%8C%A7&block_no=47639&block_ch=%95x%8Em%8ER&year=&month=&day=&elm=normal&view= 富士山年・月ごとの値(気象庁)]</ref>。1981年2月27日には最低気温マイナス38.0℃を記録した<ref name=net>[https://www.fujisan-net.jp/data/article/1074.html 富士山頂の風や気温で、最もすごかった記録|富士山NET]</ref>。
 
; 風
: 富士山頂の平均[[風速]]は夏期で8m/s、冬期で20m/sである<ref>[http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/monthly_s3.php?prec_no=49&block_no=47639&year=&month=&day=&view=a4 富士山 平均風速の月平均値(m/s)|気象庁]</ref>。1966年9月25日には最大瞬間風速91m/sを、1942年4月5日には最大風速(10分間の平均風速)72.5m/sを記録した<ref name=net/>。いずれも国内一位の記録である<ref name=net/>。
 
; 気圧
: 富士山頂の平均[[気圧]]は638[[ヘクトパスカル]]、0.63気圧である。そのため山頂付近では水が約88℃で沸騰し<ref>[https://www.fujisan-net.jp/data/article/1280.html 富士山頂の測候所|富士山NET]</ref>、人間は高山病を発症する危険性が高まる。
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; 難点
: 登山者が非常に多く、混雑する。駐車場や山小屋も混んでいる。早朝は八合目以上が渋滞しやすく、頂上で御来光を拝めないことがある。七合目付近から急な岩場になる。下山路に山小屋が一軒しかなく、ルートも登山路に比べて遠回りとなる<ref name=yoshida/>。山頂の久須志神社から剣ヶ峰まで約50分かかる。下山時に八合目の下江戸屋分岐で誤って須走口に降りてしまうことがある。人工物が多く、自然を満喫できない。マイカー規制の無い時期の週末は、富士スバルラインが渋滞することがある。七合目までの登山道には馬糞が落ちている。
 
; 主なアクセス
:* [[富士急行]][[河口湖駅]]・[[富士山駅]]
::** 河口湖駅下車、登山バス(45分〜55分, [[富士急山梨バス]])
::** 富士山駅下車、登山バス(55分〜65分, [[富士急山梨バス]])
:* [[河口湖駅]]・[[富士山駅]]までのアクセス
::** 首都圏各地、羽田空港、名古屋、京都、大阪、清水、静岡、三島などから高速バス
::** JR[[大月駅]]・[[高尾駅 (東京都)|高尾駅]]・[[東京駅]]より[[富士急行線]](大月より手前は[[中央本線]]との直通運転)
::** JR[[新宿駅]]・[[小山駅]]より[[ホリデー快速富士山]]号
::** JR[[新宿駅]]より山梨富士号
:* 高速バス(五合目直通)
::** [[バスタ新宿|新宿駅]]から2時間35分([[京王電鉄バス|京王バス]]・[[富士急山梨バス]]・[[フジエクスプレス]])
::** [[桜木町駅]]・[[横浜駅]]から3時間1分([[相鉄バス]]・[[フジエクスプレス]])
::** [[センター北駅]]から3時間25分([[東急トランセ]]・[[富士急湘南バス]])
:
 
; 歴史
: 古来から北口や裏口とも呼ばれ、前述する「吉田口登山道」と「船津口登山道」との大きく2つのルートに由来する。
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; 難点
: 登りと下りが同じ道で、登山者も多く、混雑しやすい<ref name=fujinomiya/>。駐車場や山小屋も混んでいる。平均勾配が約29%と傾斜が厳しく、岩場が多い<ref name=fujinomiya/>。樹林帯がなく、陽射しが強い。人工物が多く、自然を満喫できない。[[自家用自動車|マイカー]]は規制されやすい。バスの本数が吉田ルートに比べて少ない。残雪が多く、7月中旬まで登山道が開通しない年がある。発病や転倒事故が多い。
 
; 主なアクセス
:* JR[[御殿場線]]
::** [[御殿場駅]]下車、登山バスで水ヶ塚公園下車(御殿場口新五合目経由で55分)、シャトルバスで富士宮口五合目(登り40分。30分間隔で運行<ref>[http://www.pref.shizuoka.jp/kensetsu/ke-210/fujisan/ 静岡県/富士山マイカー規制 - 静岡県公式ホームページ]</ref>)
:* JR[[身延線]]
::** [[富士宮駅]]下車、高速バス(1時間10分, [[富士急行]])
::** [[富士宮駅]]下車、登山バス(1時間20分〜1時間40分, [[富士急静岡バス]]。新富士、富士発のバスも経由するため本数が多い。)
:
:* JR[[東海道本線]]
::** [[富士駅]]下車、登山バス(2時間〜2時間10分, [[富士急静岡バス]])
:** JR[[東海道新幹線]]
:: [[新富士駅 (静岡県)|新富士駅]]下車、登山バス(1時間55分〜2時間15分, [[富士急静岡バス]])
::** [[三島新富士駅 (静岡県)|新富士駅]]下車、登山バス(2(1時間555分〜2時間15分, [[富士急静岡バス]])
::** [[静岡三島駅]]下車、高速登山バス(2時間105分, [[富士急静岡バス]])
::** [[新富士駅 (静岡県)|新富士駅]]下車、登山高速バス(1(2時間55分〜2時間1510分, [[富士急静岡バス]])
 
:
; 歴史
: 「[[富士山村山口登山道|大宮・村山口登山道]]」は[[畿内]]に近いため、富士登山道としては最も古いルートといわれるが、中世の記録は北口のほうが多い。表口や南口、三島口(頂上の[[八神峰|三島岳]]に由来、あるいは[[三嶋大社]]・[[浅間神社 (三島市)|浅間神社]]から見た呼称)とも呼ばれ、[[大宮町 (静岡県)|大宮]](標高150m)と[[富士根村|村山]](標高500m)の2つの集落により管理されていた。
: 大宮では、噴火を鎮めるため[[大同]]元年([[806年]])年に浅間神社(現在の富士山本宮浅間大社)が[[山宮浅間神社]]から遷座している。頂上までの登山がいつごろから行われるようになったかは不明だが、[[久安]]5年([[1149年]])には[[末代]]により頂上に大日寺(現在の浅間大社奥宮)が建てられた記録がある。村山では[[12世紀]]後半の遺構が複数、頂上では[[承久]]2年([[1220年]])ごろの経巻が見つかっており、考古学的にも裏付けられていることから、平安時代から遅くとも鎌倉時代には開かれていたのは確実である。[[文保]]元年([[1317年]])ごろには末代の流れをくむ[[頼尊]]によって村山に[[富士山興法寺]](現在の[[村山浅間神社|富士根本宮村山浅間神社]])が建てられたともいわれ、[[村山修験]]の中心地として発展した。登山道は[[村山三坊]]によって管理され、大宮側は基本的に関わらなかった。御師はおらず、大宮では浅間大社の[[神人|社人]]が、村山では修験者が宿坊を管理していた。
: 宝永4年(1707年)の宝永大噴火の被害で30年以上不通になると、村山修験者が京都まで行って富士垢離をするようになり、それで富士登山と同じ御利益があるとしたことや、もともと御師がおらず西国各地への「檀廻り」が行われなかったことから、登山客は減少した。それでも浅間大社を信仰する[[徳川幕府|幕府]]の裁定で、頂上の利権争いにおいて大宮が内院散銭の一番拾いの六割を取得し、八合目より上を浅間大社の支配地と明確にされるなど、影響は強かった。ただし、大宮が直接管理できていたのは薬師堂(現在の久須志神社)のみで、村山口から大日堂(現在の浅間大社奥宮)は村山の管理下であったことから、大宮関係者ですら村山に山役銭(登山料)を払わねばならないため、須走口を使っていた。また、大宮から村山を経て登山しなければならないことから、江戸時代には何度か村山から直接の登山に誘導するよう試みられており、大宮が抗議して幕府に仲裁されるなど、大宮と村山の連携はとれておらず、関係は悪かった。
: 明治時代になると幕府からの縛りがなくなったことから、大宮は[[身延線]]の開通を見越して[[1906年]](明治39年)に「新大宮口登山道」を開削し、村山ではなく山宮浅間神社を経由するようになる。[[1913年]](大正2年)にはバスが懸巣畑(カケスバタ)まで開通し、山宮浅間神社を経由することはなくなった。その後もバス路線は伸び、現在の富士宮ルートになると徒歩で登山する人はいなくなり、五合目までは実質的に廃道となった。一方、村山口は明治初期の[[神仏分離]]での興法寺・村山三坊の解体および、この新大宮口開通により衰退していった。昭和になると登る人もほとんどいなくなり、富士山スカイラインの開通で実質的に廃道となり、近年再整備されるまでは放置されていた。そのため、「大宮・村山口登山道」として世界文化遺産に登録されているのは六合目(標高2,490m)から頂上までである。富士宮口五合目から六合目は新大宮口のものであるため含まれない。
: 富士宮口五合目へ合流する登山道としては上記の「村山口登山道」のほかに、上記の「新大宮口登山道」および旧バスルートの「懸巣畑口登山道」、それより西側には[[曽我八幡宮 (富士宮市上井出)|曽我八幡宮]]・[[白糸の滝 (静岡県)|白糸の滝]]付近から新大宮口あるいは大沢崩れ右岸ルートに接続する「上井手口登山道」(昭和初期開通)や、人穴浅間神社から大宮・村山口あるいは精進口に接続する「人穴口登山道」(江戸時代開通)が存在したが、現在は再整備された「村山口登山道」を除き整備されておらず廃道扱いである。
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; 利点
: 登山者が比較的少なく、本八合目まであまり混雑しない<ref name=subashiri/>。山小屋もそこそこある。景色に変化があり退屈しない。下山道に砂走りがある<ref name=subashiri/>。本六合目まで樹林帯で、陽射しが遮られる<ref name=subashiri/>。樹林帯を抜けると、朝は御来光を、夕方は影富士を見られる<ref name=subashiri/>。小富士(標高1,979m)に立ち寄れる。
 
; 難点
: 本八合目より上は早朝に渋滞しやすい。駐車場は小さく、混んでいる。マイカー規制が行われることもある。登山口の標高が吉田口や富士宮口に比べ数百メートル低い。山頂の久須志神社から剣ヶ峰まで約50分かかる。転倒事故が多い。樹林帯で夜間や濃霧時に迷いやすい<ref name=subashiri/>。
 
; 主なアクセス
:* JR[[御殿場線]]
::** [[御殿場駅]]下車、登山バス(1時間, [[富士急行|富士急行バス]])
:* [[小田急小田原線]]
::** [[新松田駅]]下車、登山バス(1時間30分, [[富士急湘南バス]])
:* [[御殿場駅]]までのアクセス
::** 小田急[[新宿駅]]からJR[[御殿場駅]]までは、直通の特急[[ふじさん|あさぎり]]や、[[小田急箱根高速バス]]の御殿場行きを使うと便利。
::** 小田急[[新松田駅]]から徒歩3分のJR[[松田駅]]で[[御殿場線]]に乗り換える方法もある。
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; 歴史
: 「須走口登山道」は、東口や表口とも呼ばれ、[[須走村|須走]](標高800m)が管理していた。須走には噴火を鎮めるため[[大同]]2年([[807年]])に冨士浅間神社([[東口本宮冨士浅間神社]])が鎮座している。頂上までの登山がいつごろから行われるようになったかは不明だが、平安時代から遅くとも鎌倉時代には開かれていたと考えられており、[[元中]]元年([[1384年]])の鏡が六合目で発見されていることから、室町時代には発展していたことがうかがえる。北口(吉田口・船津口)とは八合目(現在の本八合目)で合流し、利用客も北口のほうが多かったが、宝永5年([[1708年]])の記録では八合目から頂上までの茶屋は2軒を除き須走の管理下にあり、頂上の利権争いにも参加していたため、北口よりも歴史が古いと考えられている。また、現在まで大きな変更が最も少ないルートでもある。砂走りがあり下りやすいため、北口から登って須走口から下り、各地を観光して江戸に帰る客が多く、またその逆も好まれたことから、遭難者対応など他の登山口との連携も行われていた。江戸時代中期以降には富士講に属さない個人登山客も多かったことから、必ず案内人の御師をつけて遭難を防止することも行っていた。宝永大噴火での被害時も、幕府の支援を受けて30年ほどの短期間で復活している。昭和になると五合目までのバスの開通で徒歩での登山が廃れたため、五合目から頂上までが「須走口登山道」として世界文化遺産に登録されている。
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; 利点
: 登山者が非常に少なく、静かな登山を楽しめる<ref name=gotenbaguchi/>。駐車場も山小屋も空いている。駐車場が無料で、マイカー規制も行われない。人工物が少なく、自然を満喫できる。登山道の傾斜が比較的緩やかである<ref name=gotenbaguchi/>。登山道の上部からは、朝は御来光、夕方は影富士を見られる<ref name=gotenbaguchi/>。下山路に大砂走りがある<ref name=gotenbaguchi/>。[[宝永山]]や二子山に立ち寄れる。関東からのアクセスが良い。'''プリンスルート'''を使えば、富士宮ルートの標高の高さと、御殿場ルートの静けさを良いところどりできる。(詳しくは[[富士登山#皇太子の富士登山|皇太子の富士登山]]の項目を参照)
 
; 難点
: 登山者が非常に少なく、心細い。体力が不可欠。行動時間が長い。山小屋が少ない<ref name=gotenbaguchi/>。特に大石茶屋(標高1,520m)と7.4合目(標高3,100m)のわらじ館の間には山小屋やトイレ、救護所がない<ref name=gotenbaguchi/>。夜間や濃霧時に道に迷いやすい<ref name=gotenbaguchi/>。道迷いや疲労による遭難が多い<ref>[http://www.police.pref.shizuoka.jp/osirase/sangaku/fujisantoukei20-24.pdf 富士山における山岳遭難を防ぐために 平成25年3月 静岡県警察本部 地域部地域課]</ref>。樹林帯がなく陽射しが強い。景色の変化が乏しい。登山靴を消耗しやすい。バスの本数が少ない。
 
; 主なアクセス
:* JR[[御殿場線]]
::** [[御殿場駅]]下車、登山バス(40分, [[富士急行|富士急行バス]])
:* [[御殿場駅]]までのアクセス
::** 小田急[[新宿駅]]からJR[[御殿場駅]]までは、直通の特急[[ふじさん|あさぎり]]や、[[小田急箱根高速バス]]の御殿場行きを使うと便利。
::** 小田急[[新松田駅]]から徒歩3分のJR[[松田駅]]で[[御殿場線]]に乗り換える方法もある。
:
 
; 歴史
: 「[[須山口登山道]]」は、南口や東口、表口、銚子口(頂上の[[八神峰|銚子窪]]に由来)とも呼ばれ、[[須山村|須山]](標高600m)が管理していた。伝承では[[大同 (日本)|大同]]3年([[808年]])に[[空海]]が開いたといわれ、また麓の浅間神社(現在の[[須山浅間神社|南口下宮須山浅間神社]])は神代([[景行天皇]]40年)鎮座といわれている。頂上までの登山がいつごろから行われるようになったかは不明だが、少なくとも[[文明 (日本)|文明]]18年([[1486年]])の[[道興]]の『廻国雑記』に「すはま口」の記載があり、[[大永]]4年([[1524年]])には須山浅間神社の存在が確認されていることから、平安時代から遅くとも室町時代までには開かれていたと考えられている。江戸時代初期には駿河側では最も利用者が多かったが、須山は林業や農業も盛んで、他の登山口とは異なり登山産業収入は年収の半分程度であり、依存度は低かった。宝永4年(1707年)の宝永大噴火にて壊滅的な打撃を受け一度廃れるも、御師の幕府への陳情により[[安永]]9年([[1780年]])に別ルートで復活した。[[天明]]2年([[1782年]])には大宮より頂上の銚子窪に鳥居を立てる許可を得て、[[天保]]7年([[1836年]])には銚子窪の銀明水を売る権利を得た。須走と近いため、登山客を巡る争いがたびたびあった。後述する御殿場口登山道ができると須山口旧二合八勺(標高2,050m、六合目と五合五勺の間)までの旧来ルートは衰退し、さらに一部が[[1912年]](明治45年)に旧日本陸軍(のちに在日米軍、陸上自衛隊)の[[東富士演習場]]となったため廃道となった。そのため、須山口登山道として世界文化遺産に登録されているのは旧二合八勺から頂上の間および、須山御胎内周辺(標高1,435〜1,690m)だけである。新五合目(旧二合目)から旧二合八勺は御殿場口のものであるため含まれない。
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;天候急変
:富士山では天候が急変しやすく、強風、濃[[霧]]、[[落雷]]に警戒が必要である<ref>[http://www.fujisan-climb.jp/m3oati0000005me4-att/guideline_jp_rev201512.pdf 富士登山における安全確保のためのガイドライン]</ref>。
 
;[[落石]]
:富士山では落石が度々発生する。石を落さないためには、登山道を外れて歩かないこと、浮石を踏まないことが大切である。
:1980年の[[富士山大規模落石事故]]では、12人が死亡、29人が重軽傷を負い、吉田口の下山ルートが変更されるなどの影響があった。
 
;[[低体温症]]
:標高が高く、風も強い富士山では、低体温症になる危険が高まる。気温は100メートル登るごとに0.4度から0.6度低下し、体感気温は風速が1m強まるごとに1.0度低下するためである<ref>[http://www.fujisan-climb.jp/m3oati0000005me4-att/guideline_jp_rev201512.pdf 富士登山における安全確保のためのガイドライン]</ref>。
:低体温症を予防するためには、悪天候時は行動しないか、防寒着やセパレートタイプの[[雨具]]、化繊の(綿素材ではない)肌着を着込むのがよい。
 
;[[高山病]]
:富士山固有の危険の一つに高山病(高度障害)がある。七合目付近から[[高山病]]の症状を訴える者が増え、高度が上がるほどその率が高くなる。人によっては五合目でも高山病にかかることがある。高山病を予防するためには、五合目付近で数時間の高所順化をするか、こまめに水分補給や休憩をとるように山梨県警察から注意喚起がなされている<ref>[https://www.pref.yamanashi.jp/police/p_tiiki/sangaku/fujitozan.html 富士登山情報|山梨県警察]</ref>。
:高山病の症状がひどいときは、直ちに下山しなければならない。五合目や山小屋などで販売されている酸素缶には、症状を一時的に和らげる効果しかない。
 
;火山活動
:富士山は[[噴火警戒レベル|噴火警戒レベル1]]の活火山である。1707年の[[宝永大噴火]]を最後に噴火していないが、1960年代まで山頂火口付近で噴気があり、今でも[[火山性地震|火山性の地震]]や[[地殻変動]]が観測されている。将来の噴火が懸念されている。
:「富士登山における安全確保のためのガイドライン」<ref name=guideline/>は登山者に対して、突発的な噴火に備えてヘルメットを持参するよう呼びかけている。
 
;[[弾丸登山]](夜間登山)
:弾丸登山は遭難の遠因として問題視されている。山梨・静岡両県は弾丸登山の自粛を呼び掛けている<ref>[https://www.pref.yamanashi.jp/police/p_tiiki/sangaku/fujitozan.html 富士登山情報|山梨県警察]</ref>。
 
;シーズンオフの登山
:原則禁止されている。特に積雪期・残雪期の富士登山は極めて危険で、ベテラン登山家も命を落としかねない。例えば[[2009年]]12月、[[8000m峰]]二峰の登頂経験のある[[片山右京]]らが遭難、同伴者二名が死亡した。[[2013年]]12月には、[[エベレスト]]を含む8000m三峰の登頂経験のある人物が遭難死した<ref>[http://www.47news.jp/m/news/201312/SM1202_997136.html 「エベレスト登山歴ある大ベテランが…」4人富士山滑落で関係者|47News]</ref>。
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=== 9月登山(夏期) ===
静岡県側は9月10日、山梨県側は9月14日で登山道が通行止めになる。9月に入ると営業している山小屋が少なくなり、宿泊や休憩、[[飲料水]]・食事、[[便所|トイレ]]の提供の問題により、登山者は徐々に少なくなる。静岡県側は、9月最初の日曜日を過ぎると富士宮ルートと御殿場ルートの七合目以上の山小屋および須走ルートの多くの山小屋は閉鎖される。山梨県側は、吉田ルートの山小屋については、9月上旬まで大多数の山小屋が営業し、9月14日の閉山の直前まで営業するところが多いが、山頂の山小屋は8月下旬から徐々に休業し始める。
 
=== 夏期以外の登山 ===