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== 経歴 ==
東晋の太子中庶子・司徒左長史の[[王廞]]([[王導]]の子の[[王薈]]の子)の子として生まれた。[[呉県]]に居住した。[[397年]]([[隆安]]元年)、父の王廞が[[王恭]]に呼応し[[王国宝]]討伐の兵を挙げた。朝廷により王国宝が誅殺されると、挙兵の名目を失った王恭は王廞に兵を引くことを命じたが、王廞は挙兵時に多数の人々を殺戮していたことから命令に従わず、同年5月<ref>『晋書』巻10 安帝紀より</ref>、今度は王恭討伐を名目に反乱を起こした。王恭の命を受けた[[劉牢之]]の軍によって王廞は敗れて行方不明となり、長男の王泰は殺された。当時13歳だった王華は父の王廞とはぐれ、沙門の釈曇永に従って逃亡した。劉牢之の検問が厳しくなったため、曇永は王華に衣裳の包みを下げさせて後ろに従わせたが、渡し場を警備する兵たちに疑われた。王華は足が遅れていかったことから、曇永は「小姓のおまえ怠けていからわたし累が及ぶ追いつけないのだ」と罵って、杖で王華を数十回も殴りつけたので、兵たちもようやく疑いを解き、このため難を逃れることができた。赦令が出ると、呉県に帰った。
 
父の消息が不明なまま、布の着物と菜食の生活で、人と交遊することもなく成長した。[[劉裕]]は王華を任用したいと考えて、王廞の喪問を発し、王華に正式に服喪させた。喪が明けると、劉裕が[[北伐]]して鎮西将軍・[[北徐州]][[刺史]]を兼ねたため、王華は召し出されて北徐州主簿となり、そのまま鎮西主簿に転じ、治中従事史となった。彭城公[[文帝 (南朝宋)|劉義隆]]が西中郎将・[[荊州]]刺史として江陵に駐屯すると、王華はその下で西中郎主簿となり、諮議参軍に転じ、録事を兼ねた。[[420年]]([[永初 (南朝宋)|永初]]元年)、劉義隆が宜都王となり、鎮西将軍となると、王華は従って鎮西府に転じた。劉義隆は政治の事務を司馬の[[張邵]]に任せていた。張邵は傲慢な性格で、その鹵簿は主君と見まがうばかりに飾り立てていた。張邵は白服での登城を王華に糾弾され、罪に問われて召還された。王華が代わって鎮西司馬・[[南郡 (中国)|南郡]]太守となり、鎮西府と荊州の事務を代行した。