「ウルグアイ空軍機571便遭難事故」の版間の差分

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m 人名ほか
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残った28名は凍てつくように寒い高山でどうやって生存するかという難問に直面した。防寒着や雪を踏み分ける防寒靴などの装備がなかった。[[雪眼炎]] ([[:en:Snow blindness|en]]) を防ぐサングラスもなく、最後の生存者のひとりである24歳のアドルフォ・"フィト"・ストラウチは、操縦室のサンバイザーを加工してサングラスを作り、目を守った。多くの人が墜落直後に席から放り出されたことによって足を骨折していたが、医療品もなく、生存した医大生2名が航空機の支柱で添え木を作った。
 
ウルグアイ、チリ、アルゼンチンの3ヶ国から成る捜索隊が捜索を開始したが、フェアチャイルド機の外装は白かったので、積雪に混じり合い、空からの発見は非常に困難だった。捜索は開始から8日後の10月21日に中止された。墜落から11日後に、生存者のロイ・ハーアルレーは、機内にあったトランジスタラジオで捜索が中止されたというニュースを聞いた。[[ピアス・ポール・リード]]は著書『[[生存者]]<span style="font-size:80%">(原題: ''Alive: The Story of the Andes Survivors'')</span>』(生存者のインタビュー文書を題材にしている)でこれに触れている。{{Cquote|ニュースを聞くと、ロイの周りに居た生存者たちは、パラード以外全員すすり泣き、祈り始めた。パラードは冷静に西にそびえる山を見上げた。グスターボ・ココ・ニコリッチは、機体から出て、彼らの顔を見て、彼らが何を聞いていたかを悟った。そして、スーツケースとラガーシャツで薄暗い胴体の入り口へ登り、振り返ると「ほら、少年!」と叫んだ。「朗報だ! ラジオを聞いた。捜索が中止された。」機体の中は沈黙していた。皆は見込みのない状況に涙した。パエスは怒って「一体それのどこが朗報だ?」と叫んだ。「その意味するところは」とニコリッチは言った。「我々が自分たちでここを脱出するということだ。」この1人の少年のおかげで、完全な絶望に陥ることは防がれた<ref>[[:en:Piers Paul Read|Piers Paul Read]], ''[[生存者]]'', Lippincott Williams & Wilkins(1974年4月)ISBN 0-397-01001-X {{en icon}}(88ページ9行目、初版、2008年7月9日閲覧)</ref>。}}
 
生存者たちは板チョコレート数枚と、その他のスナック菓子、ワイン数本という少量の食料を持っていた。墜落後の数日間、彼らはこの食料が尽きないように少量を分配した。
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;10月15日(日)
アドルフォ・"フィト"・ストラウチは、空になったワインボトルに雪を詰め、金属片で突いて雪を溶かして水を溜める工夫をした。フェルナンド・"ナンド"・パラードは意識を回復し、危篤状態にあった妹スサーナを看病した。正午以降、3機の航空機が通過するのを目撃した。少し遅い時間に飛来した1機は機体の残骸の至近距離を通過し、翼を振った。生存者たちは、発見されたと信じた。午後に、ラグビーチームのキャプテンのマルセロ・ペレスは、支給された食物の一部が誰かに食べられていることを発見した。
 
;10月16日(月)
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;10月17日(火)
カルロス・パエス、ヌマ・トゥカッティ、ロベルト・カネッサ、アドルフォ・"フィト"・ストラウチは、脱落した尾部を探そうとして墜落地点から出て尾根の反対側に向かったが、結局何も見つけることが出来ずに体力を消耗して引き返した。
 
;10月21日(土)
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{{Cquote|高山では、身体に必要なエネルギーは膨大だった。…新たな食料を発見するという望みはなく、我々は本気で飢えていた。我々は新たな食料を探し求めて機内を捜索した。…何度も胴体の中を探し回り、モーゼルで山を登った。我々は、荷物の断片である革片を、それに使われている化学物質が身体に与える益よりも害が大きいことを知りながら食べようとした。我々は藁を見つけようとして多くの座席やクッションを切り裂いたが、藁は使われていないことがわかった。…我々は何度も同じ結論に達した。我々が着ていた衣服は食べられないし、アルミニウム、プラスチック、氷、岩石以外に何もここにはなかった<ref name="Nando_Miracle">[[ナンド・パラード]], Vince Rause, ''[[:en:Miracle in the Andes: 72 Days on the Mountain and My Long Trek Home|Miracle in the Andes: 72 Days on the Mountain and My Long Trek Home]]'', Random House Large Print, ISBN 978-0-7393-2632-9(2006年5月9日)</ref><ref>94-95ページ、2008年7月9日閲覧。</ref>。}}
 
乗客は全員[[カトリック教会|カトリック教徒]]だったが、[[ピス・ポール・リード]]が、問題となっている行為は[[聖餐]](せいさん)と同一視されると主張した。それは唯一の生存の方法であった。他の人々は、そのことを祝福したが救出後にその行為が発覚したときには態度を翻している。
 
;10月23日(月)
生存者たちは、機体の中で発見したラジオを通して、捜索隊が自分たちを発見出来ないまま捜索を中止したことを知った。
 
雪崩の後に、数人の少年たちは生存の唯一の手段が山頂に登って救援を求めることであると執拗に訴えた。機体はクリコを通過したという副パイロットの主張により、一行はチリの農村部が西へわずか数[[マイル]]の地点にあると仮定した。少年達の中で最も強健で健康状態の良かったヌマ・トゥカッティ、ダニエル・マスポンス、グスターボ・セルビーノの3名が提案に基づき出発し、雪上に残っている機体が滑り落ちた跡を登った。
 
;10月24日(火)
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;10月30日(月)
猛吹雪で機外に雪が蓄積されていく中、狭い機内に閉じ込められたままヌマ・トゥカッティの誕生日を祝った。
 
;10月31日(火)
ヌマ・トゥカッティと同様に、カルロス・パエスの誕生日を祝った。
 
=== 1972年11月 ===
;11月1日(水)
嵐は去り、空は晴れた。生存者たちは機内の材料で雪を掻き出す道具を作り、それを使って機内から雪を取り除き、遺体を掘り出した。また、この日はアルフレド・"パンチョ"・デルガドの誕生日でもあった。ロベルト・"ボビー"・フランソイスとコチェ・インシアテは山を100メートルほど登ったが途中で引き返した。数日後、ヌマ・トゥカッティとホセ・ペドロ・アルゴルタは機体の翼に登った。
 
;11月5日(日)
ナンド・パラードとロベルト・カネッサの他に誰が最終的な救助を求める遠征に同行するかを決めるために、精神的・肉体的なテストをすることとなった。このために、カルロス・パエス、ロイ・ハーレーアル、アントニオ・"ティンティン"・ビシンティンの3人が山の下側に2日間遠征した。3人は、機体の後部ドアと、アルミニウム容器2個、コーヒーの残り3分の1を発見した。日没までに機体へ戻るのは不可能だった。パエスとハーアルレーは遠征の苦しみに耐えられず、ビシンティンが同行することになった。
 
;11月15日(水)
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;11月24日(金)
アントニオ・"ティンティン"・ビシンティンおよび、ロベルト・カネッサ、ナンド・パラード、ロイ・ハーアルレーが、長く苦しい距離の中、1時間半かけて無線機を尾部まで運んだ。到着すると、雪解けによって前回より多くのスーツケースが露出していた。ロイ・ハーアルレーは無線機の修理に取りかかった。
 
;11月25日(土)
少年達が遠征から帰還した後、尾部に同行したロイ・ハーアルレーは気が進まないながら修理を手助けしたが、より若いひとりと電気工学の専門家が[[11月25日]]から[[11月29日]]の間に修理を続けた。
 
;11月26日(日)
持ってきた食料が尽きたので、パラードとビシンティンが機体へ戻った。ハーアルレーとカネッサは、無線機の修理を続けるために尾部に残った。
 
;11月28日(火)
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無線機が修理出来ないことが判明したので、彼らは機体に引き返した。そのときはわからなかったが、無線機はバッテリーで駆動していたのではなく、機体のエンジンが発生させる電力で動作していた。
 
西に向かうことが唯一の生存の方法だっと彼らは考えていたが、厳寒の夜を数日間乗り切らなければならなかった。寝袋を作ることが提案された。
 
=== 1972年12月 ===
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捜索機が上空を通過するときに備えて、雪の中にスーツケースで大きな十字を描いた。
 
アルフレド・"パンチョ"・デルガドの親友であったヌマ・トゥカッティが死亡した('''死亡29名、生存16名''')。
 
;12月12日(火)
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;12月17日(日)
機体の生存者たちは、彼らがスーツケースで雪上に描きウルグアイ空軍のC-47によって発見された十字が、アルゼンチンの気象学者が融雪量測定のために円錐形のマーカーで描いたものであると公表されたことに驚愕した。
 
パラードとカネッサは、決めたルートの通りに進み、正午までに山のふもとに達して、谷へ進んだ。ある場所で休息したとき、近くの小川に[[苔|コケ]]や[[ヨシ|アシ]]が生えているのを発見した。それは彼らが遭難以来初めて目にした植物だった。カネッサは、ハーブを摘んで食べた。
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午前10時、救助ヘリコプターが機体に残る8人の生存者たちのために墜落地点へ戻った。16名の生存者全員が救助され、喜びの場面が再びロス・マイテネス村で繰り返された。2番目のグループは、最初の救助者グループと異なり、まずチリのコルチャグアに輸送されてからサンティアゴの国民健康保険病院へ輸送された。生存者の全てがサンディアゴの病院に収容され、[[高山病]]、[[脱水 (医療)|脱水症状]]、[[凍傷]]、[[骨折]]、[[壊血病]]、[[栄養失調]]の治療を受けた。
 
生存者6名はすぐに退院し、シェラトンホテルへ行った。ロイ・ハーアルレーとハビエル・メトルは、コチェ・インシアテとアルバロ・マンヒーノが先に収容されていた4人部屋に引き留められた。19時に、ハーアルレー、メトル、インシアテ、マンヒーノ以外の生存者は皆、シェラトン・デ・サン・クリストバルで再会した。
 
;12月24日(日)
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;12月26日(火)
グループは別れ、パラードはサンティアゴを離れてビナ・デル・マーの家に引っ越した。生存者たちは、モンテビデオへ戻るときに記者会見を行うことを計画していた。
 
しかし、機内に残されたままの切り分けられ保存された遺体の写真が報道陣救助隊より公開されると、それらは衆目同行した山岳ガイド等よってリークされ、サンティアゴの新聞「El mercurio」は一面トップで生存者たちの人肉食に焦点を合わせたセンセーショナルな記事を発表した。
 
;12月28日(木)
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年月を経て、この出来事に関する本2冊と映画2本と公式サイト<ref>{{Cite web|url=http://www.viven.com.uy/571/eng/historia.asp|title=Alive : The Andes Accident 1972 - Official Site|publisher=Andes Accident Official Web Site|accessdate=2008年7月10日}}</ref>ができた。
 
まだ非常に衰弱していたロイ・ハーアルレーはチリに残り、数日後に帰宅した。
 
救助隊員は、墜落地点から800メートルほど離れた地点に死者の遺体を埋め、石を積み重ね、中心に鉄製の十字架を建てた。機体内に残っていた遺体の残骸は野次馬による損壊を防ぐために焼却処分された。
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| 11月18日死去
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|'''ヌマ・トゥカッティ''' || <small> (Numa Turcatti) </small> || 24歳
| 12月11日死去。最後の死亡者。
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