「日野熊蔵」の版間の差分

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同年[[12月14日]]、代々木錬兵場(現・[[代々木公園]])において滑走試験中の日野は飛行<ref>十四日に早くも二メートルの高さで百メートル余り、十六日には高度三メートル、距離百メートルを飛行したが、いずれも「滑走中あやまって離陸」という発表にされている。- [http://kyouiku.higo.ed.jp/page2022/002/005/page2321.html 熊本県教育委員会]</ref>に成功し、これが日本史上の初飛行とされる。しかし、飛行機研究の第一人者として、また当時数少ない実際の航空機の飛行を見たことがある人物であったため、事実上の現場責任者として間近で注視していた[[田中館愛橘]]博士や、操縦していた日野自身も、初飛行であることを認める発言はしていない。さらに、初飛行の根拠となっている距離については、唯一「初飛行」と報じた[[萬朝報]]の記者が60mと報じたがあくまで目測でしかなく、取材していた他9紙は距離を記載しておらず初飛行とは報じていない。また記者自身も後日、「すこしでも地を離れると、手を叩いたり、万歳を叫んだりした。今から思うと、なんだか自分が気の毒になる。」と書いている<ref>[[村岡正明]]『初飛行』、光人社、2010年、164-168頁。</ref>。また、「飛行」とは翼の揚力が機体の重量を定常的に支え、操縦者が意のままに機を操縦できる状態を指すため、「飛行」ではなく「ジャンプ」であるとして、航空力学的にも初飛行とは言えないとする意見もある<ref>[[木村秀政]]『飛行機の本』、新潮社、昭和37年。</ref>。しかしながら、日野の60mの区間を「定常的に支え、操縦者が意のままに機を操縦できる状態で'''なかった'''」とする史料は存在せず、逆に後日の徳川・日野の記録を「操縦者が意のままに機を操縦できる状態で'''あった'''」とする史料もまた存在しない。
 
19日には“公式の、初飛行を目的とした記録会”が行われ、日野・徳川の両方が成功した。これが改めて動力機初飛行として公式に認められた。事前の報道においては、当時天才[[発明家]]などと報道されていた日野の方が派手な言動も相まって遥かに有名人であり、新聞記者も徳川には直前までほとんど取材活動をしていなかった<ref>[[村岡正明]]『初飛行』、光人社、2010年、134、156頁。</ref>。しかし徳川、日野の順に飛んだため、“アンリ・ファルマン機を駆る徳川大尉が日本初飛行”ということにされてしまった。これは、徳川家の血筋でありながら没落していた[[清水徳川家]]の徳川好敏に「日本初飛行」の栄誉を与えたいという軍および[[華族]]関係者の意向・圧力だったとする説がある<ref>[[横田順彌]]『雲の上から見た明治』、学陽書房、1999年、15-16頁。</ref>。しかし、たとえ名家の出身であっても陸軍の方針として軍内部での扱いは平民と同じであることが原則だったため、この批判は適切ではないとする意見もある。ただし、その後徳川は後述する通り陸軍内部で厚遇され、逆に日野や[[滋野清武]]らは冷遇されたのは事実である。
 
ともあれ、日野の記録は抹消され、12月19日の徳川の飛行をもって'''「日本初飛行の日」'''とされている。
 
以降、徳川は陸軍の航空機畑の看板として順調に昇進し、一方の日野は翌[[1911年]](明治44年)から[[1912年]]にかけて自身が機体・エンジン共に設計した日野式飛行機の開発までをも行うが結局は失敗。同1911年(明治44)年12月に[[伊賀氏広]]制作末に福岡に左遷され、以降軍務において航空国産飛行関連が離陸用いられることはなかっ失敗し。前述の徳川の事情のほか、日野が発明に没頭する余はこれを引き取各方面から借財を重ねて訴訟沙汰「日野3号機」なっ改良を行う。1912年(明治45)年4月、福岡におた事や、て試験を行うが飛行失敗。3号機は[[山階宮武彦王水上機]]が飛行機の見学改造さた際「日野式4号機神風号」(「舞鶴号」自作日野式3号改とも)として同年9月に長崎県エンジン長崎港外整備鼠島で滑空没頭挑むが、成功て出迎えを忘れるど、協調性に欠ける性格ら軍にも度々迷惑を掛けてい事を上層部から疎まれた為とも言われている
 
試験の地が九州になっているのは、日野が1911年の末に陸軍少佐への昇進と同時に福岡歩兵連隊へ事実上の左遷とされたからである。以降軍務において航空機関連に用いられることはなかった。左遷の理由には諸説あるが、前述の徳川の事情のほか、日野が発明に没頭する余り各方面から借財を重ねて訴訟沙汰となっていた事や、皇族の[[山階宮武彦王]]が飛行機の見学に訪れた際、自作のエンジンの整備に没頭して出迎えを忘れるなど、協調性に欠ける性格から軍にも度々迷惑を掛けていた事を軍上層部から疎まれた為とも言われている。
[[1912年]]末、陸軍少佐への昇進と同時に福岡歩兵連隊へ事実上の左遷、地上勤務の傍ら[[水上機]]として制作した日野式3号機「舞鶴号」のテストを行うも失敗。[[1916年]](大正6年)にはエンジンの整備・開発技術を買われ[[東京砲兵工廠]]へ転出するも、[[1918年]](大正7年)、40歳で部下の失態の身代わりに引責し軍人を辞した。最終階級は陸軍歩兵中佐。その後は民間で発明家として生計を立てる事を目指すが、多くは実用化には至らず、自身も二度の[[脳溢血]]で闘病生活を送るなど、生活は困窮した。
 
[[1912年]]末、陸軍少佐への昇進と同時に福岡歩兵連隊へ事実上の左遷、地上勤務の傍ら[[水上機]]として制作した日野式3号機「舞鶴号」のテストを行うも失敗。[[1916年]](大正6年)にはエンジンの整備・開発技術を買われ[[東京砲兵工廠]]へ転出するも、[[1918年]](大正7年)、40歳で部下の失態の身代わりに引責し軍人を辞した。最終階級は陸軍歩兵中佐。その後は民間で発明家として生計を立てる事を目指すが、多くは実用化には至らず、自身も二度の[[脳溢血]]で闘病生活を送るなど、生活は困窮した。
 
しかしその後も発明家としての熱は尽きず、[[1933年]](昭和8年)に[[ヘリコプター]]の独自開発、[[1935年]](昭和10年)には[[萱場製作所]]が実用化を目指した[[ラムジェットエンジン]]搭載の[[無尾翼]]機、「[[かつをどり (航空機)|HK-1]](HKは日野のイニシャルである)」の開発に参加するも、いずれも実用化には失敗した。[[1941年]](昭和16年)の開戦時には自らが考案した[[自動小銃]]の制作を軍に提案するも採用には至らず、その後は[[ロケット]]の発明に取り組み、[[1942年]](昭和17年)に[[技術院]]より長年の功績を讃え、表彰を受けている。