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[[ファイル:Kyushu K11W Shiragiku in flight.jpg|thumb|300px|[[徳島海軍航空隊]]所属の白菊]]
[[ファイル:K11W_postwarGrumman F6F-5 Hellcat of VF-40 escorts Japanese Kyūshū K11W after the Japanese surrender, in August 1945.jpg|thumb|300px|[[F6F (航空機)|F6Fヘルキャット]]に護衛されて飛行する[[緑十字飛行]]に使用された白菊]]
'''白菊'''(しらぎく)は、[[第二次世界大戦]]中期から日本海軍で使用された機上作業[[練習機]]である。開発・製造は[[九州飛行機]]で、機体略番は''K11W''。[[九〇式機上作業練習機]]の後継機として[[1942年]]([[昭和]]17年)に制式採用され終戦まで使用された。大戦末期には[[特別攻撃隊|特攻機]]として使用された機体もあった。
 
== 開発 ==
[[ファイル:Kyushu K11W Shiragiku 2.jpg|thumb|300px|left|格納庫で整備中の白菊]]
機上作業練習機とは、[[艦上攻撃機]]、[[艦上爆撃機]]、[[陸上攻撃機]]、[[観測機]]のような多座機における操縦員以外の乗員の任務である航法、通信、爆撃、射撃、写真撮影、観測などの訓練を行うための機体である。日本海軍では、操縦員以外でこれら任務を行う飛行機搭乗員を一括して「偵察員」と呼び、複座機や大型機の比率が多かったため、偵察員は操縦員と同数ぐらい必要であった。海軍初の機上作業練習機である九〇式機上作業練習機は昭和6年から使用され続けていたが、太平洋戦争突入の頃になると流石に性能的に不満が出てきた。そこで海軍は[[1941年]](昭和16年)に後継機の開発を渡辺鉄工所(後の九州飛行機)に指示した。
 
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== 運用 ==
安定性や操縦性が良好で、機内スペースが広く汎用性に優れた機体だったため、戦争末期の練習航空隊には本機が必ずと言ってよいくらい配置され、終戦まで活躍した。また、近距離輸送や連絡、対潜哨戒等の任務でも利用された。燃料は「八〇丙」と呼ばれるオクタン価80のアルコール燃料を使用していた。大戦末期には[[特別攻撃隊|特攻機]]として使用されることになり塗装も練習機のシンボル色であった黄色から迷彩色に塗り替えられて沖縄戦に出撃した<ref>{{Harvnb|特攻の記録(電子版)|2011|p=381}}</ref>。製造機数は798機で、終戦時には370機以上が残存していた。これは、九三式中間練習機、零式艦上戦闘機、紫電・紫電改に続く数であった。一部は[[緑十字飛行]]に利用された。
 
== 白菊特攻隊 ==
[[ファイル:USSSiragiku Drexlerin (DD-741)tokusima refueling Feb 1945airfield.jpg|thumb|250pxleft|白菊280px|徳島基地で神風沈された駆逐艦ドレクスラー隊「徳島白菊隊」]]
[[ファイル:Tokucima siragiku unit.jpg|thumb|left|280px|神風特別攻撃隊「徳島白菊隊」隊員の記念撮影、後ろは白菊]]
[[ファイル:USS LSM-152 underway off Charleston Navy Yard in 1944.jpg|thumb|250px|白菊の特攻で1隻撃沈され1隻大破廃棄された[[LSM-1級中型揚陸艦]](手前)、写真は同型艦LSM-152]]
[[1945年]](昭和20年)1月8日に[[大本営]]が全軍特攻を決定すると、全国の練習航空隊に通常の搭乗員訓練を止め、特攻隊を編成するように命令が下された<ref>{{Harvnb|島原落穂|1990|p=18}}</ref>。
練習機により特攻は、白菊を装備する[[高知海軍航空隊|高知空]](菊水白菊隊)、[[徳島海軍航空隊|徳島空]](徳島白菊隊)、[[大井海軍航空隊|大井空]](八洲隊<!-- やえすたい -->)、鈴鹿空(若菊隊)で実施される事となり、まずは高知空と徳島空で特攻志願者の募集が開始された<ref>{{Harvnb|特攻の記録(電子版)|2011|p=562}}</ref>。当初の設計では機体が大きい白菊の機内の床に板を置いて、そこに250kg爆弾2発をワイヤーで縛って固定するという乱暴なものであったが、最終的には、250kg爆弾を両翼に1発ずつ懸架し、操縦席計器板に信管の安全装置を解除するレバーを装着するよう改造され、エンジンカバーの上に[[照準器]]が装着された<ref>{{Harvnb|島原落穂|1990|p=20}}</ref>。航続距離を延伸するために胴体内の後部席に[[零戦]]用の[[増槽]]を取り付け、通常は480リットルである搭載燃料を700リットル弱まで増加させた。これらの改造により、通常時より大幅に重量が増加し、離陸すら困難となったため、訓練は離陸を中心に行われた<ref>{{Harvnb|大島隆之(電子版)|2016|p=2405}}</ref>ま
またこの状態での最高速度は時速180㎞程度と低速になり、この白菊で特攻出撃させられることに隊員らに戸惑いがあったという<ref>{{cite news |url=http://www.sankei.com/west/news/150624/wst1506240006-n1.html |newspaper=産経新聞 |title=【戦争の記憶】練習機での特攻命令、無謀な戦術に今も怒り 元徳島白菊特攻隊員・田尻正人さん(92) |date=2015-06-24 |accessdate=2017-10-14}}</ref>。
[[ファイル:USS Drexler (DD-741) refueling Feb 1945.jpg|thumb|280px|白菊の特攻で撃沈された駆逐艦ドレクスラー]]
[[ファイル:USS Barry Lipan LST-53.jpg|thumb|280px|白菊の特攻で撃沈される直前の輸送駆逐艦バリー(中央)、こののち、白菊の特攻でバリーと同航していた右のLSM-53の同型艦LSM-59が撃沈された]]
離陸に慣れてくると、模擬爆弾を搭載しての訓練となったが、起床を夕刻の午後5時として、暗くなるのを待って訓練を開始するといった昼夜逆転日課による訓練を連夜行った<ref>{{Harvnb|野原一夫|1987|p=214}}</ref>。日中にも、[[サングラス|黒眼鏡]]をかけて、視界を夜間と同じにして訓練した<ref>{{Harvnb|島原落穂|1990|p=19}}</ref>。離着陸になれると、模擬爆弾を搭載しての飛行訓練となったが、1945年5月初めのころには夜間飛行を満足にできない搭乗員が多かったのに、1か月もしない5月22日のころには殆どの搭乗員が夜間洋上進行可能な水準となり<ref>{{Harvnb|特攻の記録(電子版)|2011|p=566}}</ref>、海面すれすれの高度15mで編隊飛行することもできるようになっていた<ref>{{Harvnb|陰山慶一|1987|p=179}}</ref>。これ日本海軍、夜間飛行を支障なくこなす操縦技術を有する搭乗員をA級と認定しており<ref>{{Harvnb|渡辺洋二|2004|p=409}}</ref>、同じ夜間出撃を行っていた精鋭部隊[[芙蓉部隊]]が、200時間もの飛行時間を要して到達できた技能水準<ref>{{Harvnb|境克彦|2017|p=305}}</ref>と同水準であったが、芙蓉部隊とは異なり、白菊はその低速から他の航空機による誘導も護衛も不可能であり、最初から沖縄まで単独での夜間洋上進行が求められ<ref>{{Harvnb|陰山慶一|1987|p=180}}</ref>、より難易度は高かった。
 
白菊特攻は[[沖縄戦]]に投入されることとなり、[[菊水作戦#菊水七号作戦|菊水七号作戦]]中の1945年(昭和20年)5月24日の夜間に初の白菊特攻隊、第一次白菊隊14機が[[串良町|串良]]の航空基地から出撃した。出撃に際して搭乗員には「白菊は爆装こそ大きいが速力は遅い。戦艦や巡洋艦などの大型艦は狙っても無理であるから、なるべくは輸送艦を狙いこれを爆砕せよ」と命令されている<ref>{{Harvnb|野原一夫|1987|p=215}}</ref>。白菊は速度が著しく遅いため、出撃の際は真っ先に離陸し、次に15分おいて戦闘機が離陸、さらにその後に[[艦上爆撃機]]や[[艦上攻撃機]]が離陸するように決めていた。そうすることにより、戦闘機が途中で白菊を追い越して敵戦闘機と交戦し、白菊はその隙をついて敵艦に突入する計画であった<ref>{{Harvnb|蝦名賢造|1977|p=244}}</ref>。この日出撃した白菊隊は、故障や不時着の3機を除き11機が未帰還となったが、一部が敵艦隊に到達している。[[沖縄戦]]で特攻を指揮した[[航空艦隊|第5航空艦隊]]司令部はアメリカ軍の無電を傍受しており、「時速160㎞~170㎞の日本軍機に追尾されている。」というアメリカ軍の[[駆逐艦]]の無電を聞いた一人の幕僚が、「駆逐艦の方がのろい白菊を追いかけているんだろう。」と笑う有様で<ref>{{Harvnb|島原落穂|1990|p=23}}</ref>、第5航空艦隊司令官[[宇垣纏]]中将も「夜間は兎も角昼間敵戦闘機に会して一たまりもなき情なき事なり(中略)数あれど之に大なる期待はかけ難し。」と白菊特攻について厳しい評価を下し、夜間や[[黎明]]に限定して投入することとしている<ref>{{Harvnb|宇垣|1953b|p=244}}</ref>。
離陸に慣れてくると、模擬爆弾を搭載しての訓練となったが、起床を夕刻の午後5時として、暗くなるのを待って訓練を開始するといった昼夜逆転日課による訓練を連夜行った<ref>{{Harvnb|野原一夫|1987|p=214}}</ref>。離着陸になれると、模擬爆弾を搭載しての飛行訓練となったが、1945年5月初めのころには夜間飛行を満足にできない搭乗員が多かったのに、1か月もしない5月22日のころには殆どの搭乗員が夜間洋上進行可能な水準となり<ref>{{Harvnb|特攻の記録(電子版)|2011|p=566}}</ref>、海面すれすれの高度15mで編隊飛行することもできるようになっていた<ref>{{Harvnb|陰山慶一|1987|p=179}}</ref>。これは、同じ夜間出撃を行っていた精鋭部隊[[芙蓉部隊]]が、200時間もの飛行時間を要して到達できた技能水準<ref>{{Harvnb|境克彦|2017|p=305}}</ref>と同水準であったが、芙蓉部隊とは異なり、白菊はその低速から他の航空機による誘導も護衛も不可能であり、最初から沖縄まで単独での夜間洋上進行が求められ<ref>{{Harvnb|陰山慶一|1987|p=180}}</ref>、より難易度は高かった。
 
白菊特攻は[[沖縄戦]]に投入されることとなり、[[菊水作戦#菊水七号作戦|菊水七号作戦]]中の1945年(昭和20年)5月24日の夜間に初の白菊特攻隊、第一次白菊隊14機が[[串良町|串良]]の航空基地から出撃した。出撃に際して搭乗員には「白菊は爆装こそ大きいが速力は遅い。戦艦や巡洋艦などの大型艦は狙っても無理であるから、なるべくは輸送艦を狙いこれを爆砕せよ」と命令されている<ref>{{Harvnb|野原一夫|1987|p=215}}</ref>。この日出撃した白菊隊は、故障や不時着の3機を除き11機が未帰還となったが、一部が敵艦隊に到達している。[[沖縄戦]]で特攻を指揮した[[航空艦隊|第5航空艦隊]]司令部はアメリカ軍の無電を傍受しており、「時速160㎞~170㎞の日本軍機に追尾されている。」というアメリカ軍の[[駆逐艦]]の無電を聞いた一人の幕僚が、「駆逐艦の方がのろい白菊を追いかけているんだろう。」と笑う有様で<ref>{{Harvnb|島原落穂|1990|p=23}}</ref>、第5航空艦隊司令官[[宇垣纏]]中将も「夜間は兎も角昼間敵戦闘機に会して一たまりもなき情なき事なり(中略)数あれど之に大なる期待はかけ難し。」と白菊特攻について厳しい評価を下し、夜間や[[黎明]]に限定して投入することとしている<ref>{{Harvnb|宇垣|1953b|p=244}}</ref>。
 
白菊まで特攻に投入したことは、第5航空艦隊内でも戦争の成り行きに絶望感を抱かせることとなった。鹿屋基地に第五航空艦隊司令部付将校として配属された[[野原一夫]]少尉は、先に着任していた[[学徒出陣]]の予備少尉から「なんだって、今頃、鹿屋にきたんです。沖縄の戦争は、ジ・エンドですよ」「白菊まで出ていくようになっちゃあ、沖縄航空決戦もいよいよおしまいだな。五航艦にはもう、特攻に使える実用機はほとんど残っていないんです」と嘆かれたのち、白菊には軽量化のため[[無線機]]すら積まれておらず、実用機による特攻機が行う最後の突入電を打電することすらできないことも聞かされ「あまりにもみじめじゃないか」と白菊の搭乗員への同情と絶望感を覚えている<ref>{{Harvnb|野原一夫|1987|p=224}}</ref>。
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特攻戦力が欠乏していた第5航空艦隊は、[[海軍記念日]]の5月27日深夜にも白菊を[[鹿屋]]と[[串良町|串良]]から夜間出撃させた<ref>{{Harvnb|原|2006|p=339}}</ref>。この日、野原は通信室でアメリカ軍の無電を傍受していたが、やがてアメリカ軍駆逐艦や警備艇が「奇妙な物体がいくつか、海面上に見える」「海面すれすれの、30mぐらいの低空だが、それが何であるかよくわからない」「爆音が聞こえてきた。やはり飛行機かもしれない。Speed very slow, very very slow...」「太った雌鶏が空を飛んでいる。いや、あれは[[ボギー]](敵機)だ」「ボギーにしてはスピードが遅すぎる。先日も飛んできた。ボギーに間違いない」という無電を発したのを聞いている<ref>{{Harvnb|野原一夫|1987|p=226}}</ref>。白菊隊は、駆逐艦[[ドレクスラー (駆逐艦)|ドレクスラー]]に突入した。ドレクスラーの乗組員からは、接近してくる白菊は時代遅れの練習機には見えず、操縦しているのも、経験を十分積んだ熟練パイロットのように見えたという<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=178}}</ref>。白菊のうち1機は、ドレクスラーの艦後部に突入してボイラー室と機械室を破壊し、航行不能に陥らせた<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=178}}</ref>。このときドレクスラーが発したと思われる「敵機が突入してきた。甲板上大火災...至急救援たのむ」という無電を傍受した通信室の野原ら第5航空艦隊の将校たちは「突っ込んだんだ、白菊が。白菊だ。やったぞ」と歓喜している<ref>{{Harvnb|野原一夫|1987|p=227}}</ref>。この後、ドレクスラーにはもう1機の白菊も突入し、たちまち転覆して沈没した。あまりに沈没が早かったため、乗組員158名が死亡、艦長を含む52名が負傷した<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=179}}</ref>。
 
その後も白菊は、沖縄戦終結後の1945年(昭和20年)6月25日まで、のべ115機が出撃し56機が未帰還となったが<ref>{{Harvnb|戦史叢書17|1968|付表「沖縄方面特別攻撃隊一覧表」}}</ref>、1945年6月21日に輸送駆逐艦(高速輸送艦)[[バリー (DD-248)|バリー]] と[[LSM-1級中型揚陸艦]] LSM-59の合計3隻を撃沈し<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=186}}</ref>、1945年(昭和20年)5月29日に{{仮リンク|シュブリック(駆逐艦) |en|USSShubrick (DD-639)}}{{Refnest|group="注釈"|シュブリックに突入した機体の機種は公式記録上は不明であるが、シュブリックが特攻された時間、5月29日0:13に沖縄に突入した航空機は、28日19:13から夜間出撃した第三次白菊隊11機以外になく(白菊は沖縄到達まで約5時間の飛行時間)白菊の戦果と推定される<ref>{{Harvnb|島原落穂|1990|p=83}}</ref>。}}<ref>{{Harvnb|原|2006|p=238}}</ref>、1945年(昭和20年)6月21日に中型揚陸艦LSM-213の2隻を大破させ<ref>{{Harvnb|丸スペシャル 神風特別攻撃隊|1986|p=59}}</ref>、その後両艦は修理が断念されて、[[スクラップ]]となった<ref>{{cite web|url=http://ussshubrick.com/okinawa.htm|title=USS SHUBRICK DD-639 Personal War Diary|accessdate=2017-10-14}}</ref>。その他にも数隻を損傷させるなど、宇垣ら第5航空艦隊司令部の低い評価を覆す戦果を挙げている。通常は戦力とはならない練習機が、それも夜間攻撃で戦果を挙げている事に対して敵のアメリカ軍は警戒を強めており<ref>[http://www.history.navy.mil/research/library/online-reading-room/title-list-alphabetically/a/anti-suicide-action-summary.html "Anti-Suicide Action Summary"UNITED STATES FLEET HEADQUARTERS OF THE COMMANDER IN CHIEF NAVY DEPARTMENT WASHINGTON 25, D. C. 31 August 1945]</ref>、夜間の特攻機はアメリカ軍が発射した対空砲火の曳光弾を辿って、艦の中央部にある煙突などの重要箇所に突っ込んでくるため、夜間の特攻機に対する各艦個別の発砲を禁じたほどであった<ref>{{Harvnb|フェーイー|1994|p=275}}</ref>。しかし、白菊は軽量化のために編隊長機にしか無線が搭載されておらず、日本軍は白菊特攻の戦果をほとんど把握できていなかった<ref>{{Harvnb|大島隆之(電子版)|2016|p=2421}}</ref> 。
 
それでも、海軍は稼働機全てを特攻出撃させるつもりで、[[本土決戦]]でも大量の白菊を特攻出撃させる計画であったが、終戦により実現することはなかった<ref>{{Harvnb|米国戦略爆撃調査団|1996|p=189}}</ref>。白菊特攻で徳島空で56名、高知空で52名の合計108名が戦死した<ref>{{Harvnb|島原落穂|1990|p=242}}</ref>。責任を重く感じていた高知空司令の[[加藤秀吉]]大佐は、副官らが[[自決]]しないよう軍刀や拳銃を取り上げたにも関わらず、[[井戸]]に飛び込んで自決してしまった。徳島空でも3名の予備士官が自決した<ref>{{Harvnb|島原落穂|1990|p=122}}</ref>。
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* {{Cite book |和書 |author=陰山慶一|year=1987|title=海軍飛行科予備学生よもやま物語 |publisher=光人社 |isbn=978-4769803485 |ref={{SfnRef|陰山慶一|1987}} }}
*{{Cite book|和書|author=境克彦|year=2017|title=特攻セズー美濃部正の生涯 |publisher=方丈社 |isbn=978-4908925160|ref={{SfnRef|境克彦|2017}} }}
* {{Cite book |和書 |author=渡辺洋二 |year=2003 |title=彗星夜襲隊 特攻拒否の異色集団 |publisher=光人社 |series=光人社NF文庫 |isbn=4769824041 |ref={{SfnRef|渡辺洋二|2003}}}}
* {{Cite book |和書 |author=[[蝦名賢造]]|year=1977 |title=海軍予備学生 |publisher=図書出版社 |asin=B000J8U9GI |ref={{SfnRef|蝦名賢造|1977}}}}
== 関連項目 ==
* [[練習機の一覧]]