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'''勾当内侍'''(こうとうのないし)とは、掌侍の上首、つまり第一臈のこと。[[勾当]]とはある事を専管事項として担当することを意味する語で、[[八咫鏡]]を安置する[[内侍所]]の勾当を務めたことからこの名がついた。また御所の「長橋」に居室があったことから、'''長橋局'''(ながはしのつぼね)とも呼ばれた。呼び名は自己の氏や父兄の官職の名称にちなんで呼ばれることが多かった。
 
勾当内侍が記録上登場する最初の事例は『[[長秋記]]』長承3年3月19日条で、[[藤原泰子]]の皇后立后の儀式で本来いるべき場所に典侍がおらず、勾当掌侍である美乃という女性が機転を利かして儀式を無事終えて、莫大な褒賞を与えられたという記事がそれにあたる。この美乃は当時の記録から[[高階業子]]のことであったと分かる<ref>松薗斉『中世禁裏女房の研究』(思文閣出版、2018年) P46.</ref>。また、長橋に勾当内侍の局があった事例は[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]以前に見受けられず、「長橋局」が登場する最初の事例は『信俊卿記』応永13年1月2日条であるため、応永9年(1402年)に当時の内裏であった[[土御門東洞院殿]]が再建された際に長橋が宛がわれたのをきっかけにした可能性が推測される<ref>松薗斉『中世禁裏女房の研究』(思文閣出版、2018年) P48-49.</ref>。
 
宮中における経理・総務・人事・庶務などの事務処理全般を統括し、更に官位などの要望取次や訴訟などの実請伝宣など天皇と宮中内外との取次を担当した。尚侍が后妃化して内裏のことを行わなくなると、従来尚侍の権限とされていた[[内侍宣]]発給の手続を勾当内侍が代わりに行うようになり、内侍宣が廃れると代わりに[[女房奉書]]を掌るようになった。そのため、古くは尚侍で最も年長者がこの役目を担っていたが、[[室町時代]]以後には天皇による任命に代わった。この権限は[[江戸時代]]末期まで続き<ref>後桃園天皇の時代に大御乳人を務めた[[松室鎮子]]の「後桃園天皇大御乳覚帳」([[宮内庁書陵部]]所蔵)には、勾当内侍の職務として女官・稚児の採用及び元服、天皇の祈祷料支出・公家の拝借金申請の処理、寺社や御用商人や江戸幕府[[禁裏付|禁裏附]]との交渉、儀式の際の祝儀などの進物処理、天皇及び宮廷内外との連絡などが挙げられている(高橋、2009年、P136)。</ref>、[[礼銭]]などの収入も多く「千両長橋」の異名を持つ者もいた。勾当内侍と他の掌侍との差は大きく、掌侍は従五位の待遇を受けるのに対して勾当内侍は正五位下の待遇を受けた。また知行も他の掌侍は100石であったのに対して勾当内侍は200石を与えられていた。江戸時代の女官で最高位の典侍の知行は120石だったので、勾当内侍の知行はそれさえも上回る女官中最高のものだった<ref>高橋、2009年、P4-5</ref>。さらに天皇の代替わり時に掌侍は新帝が新たに任命した掌侍(主として東宮御所時代の女官)と交替して内裏を去り、[[譲位]]の場合には新院とともに[[仙洞御所]]に移り、[[崩御]]の場合には[[落飾]][[出家]]するのに対して、勾当内侍のみは引き続き新帝に仕えて、引退もしくは卒去時に典侍への昇進が取り図られる場合もあった。