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プロ3年目の{{by|1998年}}4月22日に対[[中日ドラゴンズ|中日]]戦で一軍初先発し、5回を自責点2で初勝利。{{by|1999年}}には中継ぎを中心に先発もして2勝、{{by|2000年}}は3勝。
{{by|2001年}}はセットアッパーとして開幕戦にも登板、4月半ばに膝の半月板を損傷して手術後、投球を行うと膝に水が溜まるようになったため
{{by|2002年}}の一軍出場はなかったが、{{by|2003年}}は一軍60試合に出場し
翌{{by|2004年}}は低迷するものの、{{by|2005年}}は後半戦から5番打者として[[クリーンナップ]]の一端を担う。[[規定打席]]には達しなかったが、打率.320、8本塁打、46打点。
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{{by|2006年}}はチーム有数の[[クラッチヒッター]]として[[右翼手|右翼]]のレギュラーとなって134試合に出場し、初の規定打席に到達して打率.275、自己最多の9本塁打59打点をマークした。8月30日は宮出隆自Dayとして8号本塁打を打ち勝利する。
{{by|2007年}}は宮出の高校の後輩でもある[[岩村明憲]]のメジャー挑戦で三塁手が空席になったため、外野手から三塁手への[[コンバート (野球)|コンバート]]が予定された。春季キャンプの阪神との練習試合では2回の守備機会で2回ともエラーを喫し、阪神の[[岡田彰布]]監督から「岩村はセ・リーグ一のサードやったから気が楽や」と言われた。この後も特守に励んだが成果は思わしくなく、三塁手としての守備率は.875とチーム最下位で
{{by|2008年}}は、一塁には[[畠山和洋]]が固定、右翼には[[福地寿樹]]が固定され、
{{by|2009年}}、開幕直前の3月23日、[[一場靖弘]]<ref>2011年からチームメイトとなる。</ref>との[[トレード|交換トレード]]で[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]へ移籍。背番号は'''9'''。
=== 楽天時代 ===
前半は、打率は1割台と調子が悪く登録と抹消を繰り返したが
{{by|2010年}}は若手選手の台頭と
=== ヤクルト復帰 ===
[[11月10日]]に古巣のヤクルトが宮出の獲得を発表し<ref>[http://www.yakult-swallows.co.jp/red_mpl/topicsView2.cgi?TYPE=t&SEQ=13131 濱中選手と宮出選手の獲得について]</ref>、3シーズンぶりにスワローズ復帰となった。背番号はヤクルト在籍時の'''43'''は一場が着けているため'''49'''となった。しかし、[[2011年]]は
[[2012年]]10月6日
=== 引退後 ===
[[2013年]]よりヤクルトの二軍打撃コーチに就任した<ref>[http://www.yakult-swallows.co.jp/information/detail.php?article_seq=15332 2013年のコーチングスタッフについて]2012年10月22日 東京ヤクルトスワローズ公式サイト</ref>。[[2015年]]より
== 人物 ==
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長身から繰り出されるパワフルな打撃から、一時は[[ロベルト・ペタジーニ]]に引っ掛けて「ミヤジーニ」のニックネームで和製大砲として期待された。また、2005年にはその長身から同年に[[読売ジャイアンツ|巨人]]に在籍していた[[バート・ミアディッチ]]と引っ掛けて「ミヤデッチ」または「ミヤディッチ」と呼ばれていた事もあった。
チームの宴会で
楽天移籍後の会見で宮出は、「入団したときのようにまっさらな気持ちで
== 詳細情報 ==
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