「椎の木屋敷」の版間の差分

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|解体 =
|所在地郵便番号 = 448-0845
|所在地 = [[愛知県]][[刈谷市]][[銀座 (刈谷市)|銀座]]6丁目58−1
|緯度度 = 34|緯度分 = 59|緯度秒 = 16.9|N(北緯)及びS(南緯) = N
|経度度 = 136|経度分 = 59|経度秒 = 18.8|E(東経)及びW(西経) = E
|備考 =
}}
'''椎の木屋敷'''(しいのきやしき)は、[[愛知県]][[刈谷市]][[銀座 (刈谷市)|銀座]]6丁目にある[[史跡]]。「椎の木屋敷跡」として1997年(平成9年)3月13日に刈谷市指定文化財(史跡)に指定された。
 
== 説明地理 ==
[[刈谷城]]本丸(現在の[[亀城公園 (刈谷市)|亀城公園]])から真東に500メートルほど、磧川(せきのかわ、現在は[[暗渠]])を超えたあたりは周辺より5メートルほど高くなっている。現在は[[刈谷市立亀城小学校]]と[[正覚寺 (刈谷市)|正覚寺]]に挟まれたこの高台にはかつて[[シイ]]の木が生い茂っていたことから椎の木藪とも呼ばれ、この付近一帯の土地を椎の木屋敷と呼ぶ。ここにはかつて文字通りの屋敷建築物も存在した<ref name="日本歴史地名体系"/>。<ref name=cityofficial>[https://www.city.kariya.lg.jp/kankobunka/rekishibunka/rekishi/siinokiyashikiato.html 椎の木屋敷] 刈谷市</ref><ref name=cityofficialpdf>[https://www.city.kariya.lg.jp/kankobunka/rekishibunka/rekishi/siinokiyashikiato.files/siinoki.pdf 於大の方由緒の地 椎の木屋敷跡] 刈谷市</ref><ref name=kankokyokai>[http://www.kariya-guide.com/sightseeing/000003.html 於大の方由緒の地 椎の木屋敷跡] 刈谷市観光協会</ref>
[[File:刈谷市椎の木屋敷1.jpg|thumb|left|17歳で家康を出産した於大の像]]
 
== 歴史 ==
[[刈谷城]]本丸(現在の[[亀城公園 (刈谷市)|亀城公園]])から真東に500メートルほど、磧川(せきのかわ、現在は[[暗渠]])を超えたあたりは周辺より5メートルほど高くなっている。現在は[[刈谷市立亀城小学校]]と[[正覚寺 (刈谷市)|正覚寺]]に挟まれたこの高台にはかつて[[シイ]]の木が生い茂っていたことから椎の木藪とも呼ばれ、この付近一帯の土地を椎の木屋敷と呼ぶ。ここにはかつて文字通りの屋敷建築物も存在した。<ref name=cityofficial>[https://www.city.kariya.lg.jp/kankobunka/rekishibunka/rekishi/siinokiyashikiato.html 椎の木屋敷] 刈谷市</ref><ref name=cityofficialpdf>[https://www.city.kariya.lg.jp/kankobunka/rekishibunka/rekishi/siinokiyashikiato.files/siinoki.pdf 於大の方由緒の地 椎の木屋敷跡] 刈谷市</ref><ref name=kankokyokai>[http://www.kariya-guide.com/sightseeing/000003.html 於大の方由緒の地 椎の木屋敷跡] 刈谷市観光協会</ref>
[[File:刈谷市椎の木屋敷1.jpg|thumb|left|17歳で家康を出産した於大の像]]
[[水野忠政]]の娘[[於大の方]]は未通女だった天文10年(1541年)に[[松平広忠]]に嫁ぎ、数え年17歳の天文11年(1543年)に竹千代(後の[[徳川家康]])を出産した<ref name="日本歴史地名体系"/>。しかし、天文14年(1544年)に実家の水野家が松平家と離反したため、松平広忠から離縁された<ref name="日本歴史地名体系">『日本歴史地名大系 23 愛知県の地名』平凡社、1981年</ref>。この際、[[岡崎城]]から刈谷の[[水野家]]に戻ってこの屋敷に住んだとされる。
 
[[水野忠政]]の娘[[於大の方]]は未通女だった天文10年(1541年)に[[松平広忠]]に嫁ぎ、数え年17歳の天文11年(1543年)に竹千代(後の[[徳川家康]])を出産したが、天文14年(1544年)に実家の水野家が松平家と離反したため松平広忠から離縁された。この際、[[岡崎城]]から刈谷の[[水野家]]に戻ってこの屋敷に住んだとされる。江戸時代には霊地扱いされ<ref name="日本歴史地名体系"/>、屋敷の出入口に鍵が掛けられ、庶民は立ち入ることができなかった。かつて文字通りの屋敷建築物も存在し、敷地の中央部には数基の[[五輪塔]]があったとされる<ref name="日本歴史地名体系"/>。於大は天文17年(1547年)に[[阿久比町|阿久比]]の[[久松俊勝]]と再婚し、椎の木屋敷を離れて[[坂部城跡|坂部城]]に移った<ref name="日本歴史地名体系"/>。<ref name=cityofficial/><ref name=cityofficialpdf/><ref name=kankokyokai/><ref>椎の木屋敷跡現地解説板</ref>
 
[[大政奉還]]後の1871年(明治4年)には井野氏がこの土地の所有者となり、敷地の大部分を[[庭園]]とした上で新たに[[庵]]を設けた。やがてこの土地は宅地化されたが、[[刈谷市]]は1980年(昭和55年)の市制30周年記念事業として土地の一部を取得し、1997年(平成9年)3月13日に刈谷市指定[[文化財]](史跡)に指定した後、1999年(平成11年)には市民に開放する史跡として整備した。於大の座像や東屋のある庭園であり、[[政略結婚]]の末に捨てられた恨みからか、あるいは置いていった我が子・家康を思ってか於大の目線は岡崎の方角に向けられている。<ref name=cityofficial/><ref name=cityofficialpdf/><ref name=kankokyokai/>
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