「ダーバー」の版間の差分

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ダーバーの騎手は、フランスを本拠とするアメリカ人騎手のマット・マクギー(Matt MacGee)だった<ref name="NHM-983"/>。マクギー騎手は、道中半ばでダーバーを先頭に立たせると、そのまま3馬身差で逃げ切った<ref name="GRA_19140529"/>。2着と3着にも人気薄のハプスブルグ(Hapsburg、単勝34倍)とピーターザハーミット(Peter the Hermit、単勝101倍)<ref name="WU_19140528"/>が飛び込んで大波乱となり、競馬場の大観衆は声も出せずに固まったままだった。勝ったダーバーはフランス産馬でフランス調教馬だったが、馬主がアメリカ人だったので、アメリカではアメリカ馬が優勝したかのように沸き返った<ref name="TH_19140527"/>。
 
エプソムでの勝利の後、ダーバーはフランスへ帰国して2度出走したが、ダーバーは優れた馬であることは示したものの、フランスの最強クラスには劣るという印象を固めることになった。というのも、[[シャンティイ競馬場]]での[[ジョッケクルブ賞|フランスダービー]]ではサルダナパルの前に4着に敗れ、続く[[パリロンシャン競馬場|ロンシャン競馬場]]での[[パリ大賞典]]ではサルダナパルとラファリナの前に3着に沈んだのである<ref name="EP_19140629"/>。パリ大賞典当日([[1914年]][[6月28日]])、貴賓席で観戦中のフランス大統領[[レイモン・ポアンカレ]]のもとに、1通の電報が届き、それを見た大統領は執務室に戻ると、貴賓席には戻らなかった。その電報は[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]の外交官から送られてきたもので、この日、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]皇太子夫妻が暗殺されたこと([[サラエボ事件]])を急報してきたのである。まもなく[[第一次世界大戦]]が始まり、フランス国内の競馬は取りやめになった。ダーバーもこれが最後の出走になった。
 
ダーバーは、[[アフリカ系アメリカ人]]の馬丁に護られて[[パリ]]から[[ノルマンディー]]へ避難した。ダーバーは[[アメリカ合衆国の国旗|星条旗]]に身を包み、次のような但し書きが添えられていた。