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'''儀間真常'''(ぎま しんじょう、嘉靖36年([[1557年]]) - 順治元年10月14日([[1644年]]11月13日))
== 人物 ==
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ところで蕃薯はのちに薩摩藩をへて日本全国へと広がっていったため、現代では名称としても「'''サツマ'''イモ」としてよく知られているが、それが琉球から伝わったことや、その端緒を開いた総管野国や儀間親方真常の名はあまり知られていない。
産業の恩人を祀った世持神社([[那覇市]]奥武山町)では、
墓所は[[那覇市]]首里崎山町。
== 系譜 ==
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**兄(長男):大嶺親雲上
**兄(次男):儀間仁屋
**姉(長女):思玉 (兪
*室:毛氏真鍋
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*[[1573年]]-[[1592年]]([[万暦]]年間) この間までに黄冠に陞る''(→儀間里之子親雲上真常)''。
*[[1593年]](万暦21)5月16日 父:麻時嘗・儀間親雲上真命の跡を継ぎ、真和志間切儀間地頭となる''(→儀間親雲上真常)''。
*1605年(万暦33) [[総管野国]]が中国から蕃薯を持ち帰ったことを聞きつけ、その苗と栽培法を学び、以後琉球各地に広める。
*[[1609年]](万暦37)5月17日 [[薩摩]]の琉球侵略により、[[尚寧]]王が上国することになるが、このとき勢頭役として随行。
*[[1611年]](万暦39)9月13日 木綿種を携えて帰国。そのご那覇泉崎村に住んでいた日本人の女性二人(梅千代と実千代)から木綿織りの方法を学び、これを広める。
*[[1623年]]([[天啓]]3) 采地儀間村の者を中国へ遣わし、砂糖の製法を学ばせる。以後これを広める。
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