「複都制」の版間の差分

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漢朝の統一が失われたのちの[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]、[[北周]]は政権中枢の軍事力の集結する[[関中]]の[[長安]]を都とし、東方の[[華北平原]]への出口に位置する[[洛陽]]を穀倉地帯からの物資を集積する陪都とする複都制をとった。[[隋]]もこれを引き継ぎ、[[唐]]の[[723年]]([[開元]]11年)には、長安・洛陽(東都)両都に北都として[[オルドス]]地方や[[黄土高原]]北部の[[遊牧民|遊牧地帯]]の騎馬軍事力を扼する[[汾水]]流域の[[太原]]を加え三京になった。[[757年]]([[至徳 (唐)|至徳]]2年)には更に西域を望む関中渭水盆地西端の[[鳳翔県|鳳翔]](西京)、穀倉地帯として重要な[[四川盆地]]の[[成都市|成都]](蜀郡)が加えられ五京を持つに至ったが、この2都は間もなく廃された。これらの中でも華北平原や江南の穀倉地帯の物産が集積される洛陽は、食糧に乏しい長安に比べて食糧が豊富なため、皇帝は皇太子に長安で監国させ、たびたび洛陽に巡幸した。特に[[武則天]]はその治世の間は長安にほとんど行かず洛陽の都に住んでいた。このように洛陽は重要な陪都として長安と並び両京と称された。
 
その後、[[モンゴル帝国]]の皇帝直轄政権として成立した[[元 (王朝)|元]]では[[遊牧国家]]の伝統に則り皇帝は直轄の遊牧軍団と共に夏営地に設けられた夏都の[[上都]]と冬営地に設けられた冬都の[[大都]]の間の広大な[[首都圏]]を季節巡回した。元朝を華北から締め出した[[明]]では当初建国地の[[南京市|南京]]から全国を統治していたが、やがて[[北元]]と対峙する前線基地として旧大都に置かれた[[北京市|北京]]に重心を移した複都制に移行した。[[マンチュリア]]から興った[[清]]は建国の地である[[盛京]]と共に、征服した中華世界を統治するために明の北京・南京の首都機能を継承した。なお、やはりマンチュリアから興った王朝である[[渤海 (国)|渤海]]、[[遼]]、[[金 (王朝)|金]]では五京を置かれた。
 
王朝時代の中国は王朝の本拠地と征服地の双方の統治、軍事力と統治権力の首都機能と経済力の首都機能の両立、遊牧国家の影響などから複都制が盛んであった。