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{{by|1989年}}、監督復帰した藤田により三塁への再コンバートが試みられたが、シーズン序盤、[[阪神甲子園球場|甲子園]]での試合中に牽制球で一塁に帰塁した際に指を痛め、長期戦線を離脱。その間に三塁は一塁から[[岡崎郁]]が、また一塁も外野から[[駒田徳広]]が定着したこともあり、定位置を失った中畑はこの年終盤に早々と引退を表明した。リーグ優勝を決めた試合(大洋戦・[[横浜スタジアム]])で二塁打を放った際に球場に起こった[[ウェーブ_(観客)|ウェーブ]]について、のちに、自分が日本の球場で最初に起こしたもの、と発言している(実際には、この前日の試合で既にウェーブが起こっており、この試合でも8回表で中畑の2打者前の[[中尾孝義]]の打席でウェーブが起こっている)。チームのシーズン最終戦となった[[10月13日]]の[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]戦で途中出場し[[宮本賢治]]から本塁打を打つ。さらに現役最後の試合となった[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]との[[1989年の日本シリーズ|日本シリーズ第7戦]]([[藤井寺球場]])では、[[吉井理人]]から本塁打(この後、もう1打席回ったが、最終打席は三塁フライに終わった)を放ち、有終の美を飾った<ref>この試合には夫人が観戦しに来ており、夫人が見ている中で現役最後の本塁打を放った。最後の本塁打の背景には、同僚である篠塚が打席に立つよう進言した、と言われている。</ref>。
 
現役時代サヨナラ本塁打を3本放っているがすべて対中日戦である(1982年4月22日、[[三沢淳]]から、1983年5月8日、[[牛島和彦]]から、1986年8月7日、[[杉本正 (野球)|杉本正]]から)。
 
=== 現役引退後 ===
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=== DeNA監督退任後 ===
[[2016年の日本|2016年]]以降は、日本テレビ野球解説者・スポーツニッポン野球評論家に復帰。さらに、[[TBSテレビ]]や[[テレビ東京]]の野球中継にもゲスト解説者として出演している。同年[[12月4日]]、巨人OB会副会長に就任<ref>[http://www.sanspo.com/baseball/news/20161204/gia16120420220014-n1.html 中畑氏が巨人OB会副会長に就任 「今年、ジャイアンツは最下位だと思ったら盛り返した]</ref>。2019年からラジオ日本野球解説者に復帰。
 
== 選手としての特徴 ==