「帝辛」の版間の差分

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=== 評価 ===
帝辛についての伝記は暴政や悪事についてが殆どであるが、殷を倒した周が武王の功績を讃え統治を正当化する意図で必要以上に悪し様に記暴君とて描いたとも考えられており、信憑性が薄いものも多い。『[[論語]]』の中で[[孔子]]の弟子[[子貢]]は「殷の紂王の悪行は世間で言われているほどではなかっただろう」旨の言葉を述べており、相当の悪評がある一方で、それに対して懐疑的な見方も既にあったことがわかる。
 
酒池肉林の行為などは、実際には神を降ろすための儀式であったとする説もある。また、祭祀をおろそかにしたという説も旧式の祭祀を改良し、簡略化させようとしていたとする見方もあり、真相は不明である。<!--甲骨文の研究からは前代まで続いていた[[人身御供]]を取りやめたのは帝辛だったことが判明しており<ref>陳舜臣『中国五千年』(上)講談社<講談社文庫> 1989年 57頁。 陳舜臣によると、生産が増えたために、殺害するよりも働かせた方がよいという判断したのか、羌族が昔に比べて容易に捕獲出来なくなったとの説を述べている。</ref>、史書の伝えるところとは食い違っている。また、-->炮烙の刑についても、初期の史書では酒池肉林の一部として炮烙(肉を焼くためのグリルのようなものを置いた話から、罪人を焼く刑罰に話が変わっており、周が自らの正統性を示すために帝辛を卑しめ、その意味や解説が拡大したものと考えられている。
 
後の世に[[夏 (三代)|夏]]の[[桀]]と共に「'''夏桀殷紂'''」と呼ばれ、暴君の代名詞となったが、両者の人物像や最期は酷似している。美女([[末喜]]と妲己)に溺れ、政を省みず豪著な宴会([[肉山脯林]]と酒池肉林)を催し、諫言をする臣を殺して回り、次代の王([[天乙|湯王]]と文王)を幽閉し、名臣の補佐([[伊尹]]と[[呂尚|太公望]])を受けた英雄に滅ぼされるという筋書きである。夏の実在が疑問視されていた時代には、帝辛の逸話を元に桀の人物像が作られたという説が有力であったが、遺跡の発見などにより夏が実在した可能性が高まっている現在では、桀の伝説に欠けている部分を帝辛の逸話から流用することによって、後の時代に穴埋めをしていったのではないかという説が有力になっている<ref name="enka"> [[袁珂]] 『中国の神話伝説』下、鈴木博 訳、青土社、1993年、56-58頁。</ref>。なお、殷墟から出土している甲骨文の卜辞には妲己に関する文献は見つかっていない<ref>[[陳舜臣]]『中国五千年』(上) [[講談社]]<[[講談社文庫]]> 1989年 58頁。</ref>。