「アルバニア決議」の版間の差分

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== その後のアルバニア ==
{{main|{{仮リンク|中ア対立|en|Sino-Albanian split}}}}
友好国として中華人民共和国に協力した[[エンヴェル・ホッジャ]]率いる[[アルバニア社会主義人民共和国|アルバニア人民共和国]]は、反共的な[[スペイン]]の[[フランシスコ・フランコ]]や[[チリ]]の[[アウグスト・ピノチェト]]とも中華人民共和国は国交を持ったことや米中接近を非難し<ref>Hoxha, Enver (1979b). Reflections on China. 2. Tirana: 8 Nëntori Publishing House. pp. 166–167.</ref>、中華人民共和国は[[3つの世界論]]を利用して「[[第三世界]]の[[超大国]]」を企んでるとも批判主張し<ref>Hoxha, name=nixonEnver (1982). Selected Works, February 1966 – July 1975. IV. Tirana: 8 Nëntori Publishing House. pp. 656.</ref><ref>Hoxha, Enver (1985). Selected Works. 5. Tirana: 8 Nëntori Publishing House. pp. 617–618, 697–698.</ref>、中華人民共和国からの経済援助を打ち切られたため、経済的に貧窮する事となった。その後、アルバニアは中華人民共和国に抗議し、{{仮リンク|中ア対立|en|Sino-Albanian split}}が表面化した。[[アルバニア労働党]]の[[反修正主義]]がもたらした閉鎖的な外交政策は[[アルバニア社会主義人民共和国]]が[[一党制]]の[[人民民主主義]]体制から[[複数政党制]]の[[自由民主主義]]体制を国体とする[[アルバニア|アルバニア共和国]]に移行する[[1990年代]]まで尾を引くことになる。
 
==脚注==