「アルバニア決議」の版間の差分

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== 欧州の動き ==
当時は[[東西冷戦]]下であったものの、[[ヨーロッパ]]のほとんどの国はアルバニア決議に賛成した。反対国はなく、棄権したのは[[反共主義]]的な[[フランコ体制下のスペイン]]と[[ギリシャ軍事政権]]と[[ルクセンブルク大公国]]だけである。アルバニア決議採択後、スペインの[[フランシス・フランコ|フランコ]]政権は1973年、ギリシャ軍事政権とルクセンブルクは1972年に中華人民共和国と国交を樹立した。ポルトガルは反共主義的な[[エスタド・ノヴォ]]体制であり、[[カーネーション革命]]まで中華民国と国交を保ったにも関わらず、[[一二・三事件]]での関係冷却化から賛成に回った。中華人民共和国とも中華民国とも国交を持たなかった[[西ドイツ]]はアルバニア決議後に国連に加盟することになるが、1972年に中華人民共和国と国交を樹立した<ref>[https://www.wilsoncenter.org/publication/sino-west-german-relations-during-the-mao-era Sino-West German Relations during the Mao Era | Wilson Center]</ref>。
 
== 中華民国(台湾)への影響 ==
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== その後のアルバニア ==
{{main|{{仮リンク|中ア対立|en|Sino-Albanian split}}}}
友好国として中華人民共和国に協力した[[エンヴェル・ホッジャ]]率いる[[アルバニア社会主義人民共和国|アルバニア人民共和国]]は、反共的な[[スペイン]]の[[フランシスコ・フランコ]]や[[チリ]]の[[アウグスト・ピノチェト]]政権とも中華人民共和国は国交を持ったことや米中接近などを非難し<ref>Hoxha, Enver (1979b). Reflections on China. 2. Tirana: 8 Nëntori Publishing House. pp. 166–167.</ref>、中華人民共和国は[[3つの世界論]]を利用して「[[第三世界]]の[[超大国]]」になることを企んでると主張し<ref>Hoxha, Enver (1982). Selected Works, February 1966 – July 1975. IV. Tirana: 8 Nëntori Publishing House. pp. 656.</ref><ref>Hoxha, Enver (1985). Selected Works. 5. Tirana: 8 Nëntori Publishing House. pp. 617–618, 697–698.</ref>、中華人民共和国からの経済援助を打ち切られたため、経済的に貧窮する事となった。その後、アルバニアは中華人民共和国に抗議し、{{仮リンク|中ア対立|en|Sino-Albanian split}}が表面化した。[[アルバニア労働党]]の[[反修正主義]]がもたらした閉鎖的な外交政策は[[アルバニア社会主義人民共和国]]が[[一党制]]の[[人民民主主義]]体制から[[複数政党制]]の[[自由民主主義]]体制を国体とする[[アルバニア|アルバニア共和国]]に移行する[[1990年代]]まで尾を引くことになる。
 
==脚注==