「沖縄戦」の版間の差分

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また、大本営陸軍部第一課が前線からの報告を纏め編纂した「戦訓報」でも、サイパンの失敗と対策や[[ペリリュー島の戦い]]の善戦は各部隊に伝えられており、沖縄戦に先立つ[[硫黄島の戦い]]では戦訓を活かして坑道陣地による持久戦術を徹底し、アメリカ軍を苦戦させている<ref>[[白井明雄]] 『日本陸軍「戦訓」の研究』芙蓉書房出版、2003年、72頁。</ref>。
 
八原の作戦計画も「島嶼守備要領」に沿うものであり、硫黄島と同様に戦訓を十分活かすべく、アメリカ軍やイギリス軍による砲爆撃対策として強固な陣地作りに心血を注いでいる<ref>前掲:白井(2003年)、280頁。</ref>。八原は[[講道館]]柔道家がアメリカの屈強なボクサーを相手に[[異種試合]]をしたときに、柔道家は終始寝技でボクサーの強烈なパンチを封殺し、遂に快勝したという講談からヒントを得ており、この作戦を『寝技戦法』と自ら称した<ref>[[#稲垣|稲垣(2003年)]]、225頁。</ref>。
寝技戦法の中心は築城であり、連合国軍艦艇の艦砲射撃や1トン爆弾などの強烈なパンチがあっても、それを跳ね返す堅固な築城があれば、敵の物量を無価値にできると考え、戦車も対戦車築城を徹底させれば恐れるに足らずとも考えた<ref name="inagaki226">[[#稲垣|稲垣(2003年)]]、226頁。</ref>。
八原参謀は「不可能を可能にする唯一の道は強固な築城であり、洞窟戦法である。」との『寝技戦法』の基本方針を記した「必勝の途」というパンフレットを作り全軍に布告し、全将兵に徹底した築城を命じた<ref name="inagaki226" />。
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=== 慶良間諸島の戦い ===
[[ファイル:USS Halligan (DD-584) sunk off Tokashiki in 1945.jpg|thumb|270px|渡嘉敷沖の浅瀬で撃沈され残骸を晒すアメリカ駆逐艦「ハリガン」]]
 
3月23日に、沖縄本島に延べ355機の艦載機による空襲があり、その他[[先島諸島]]・[[大東島]]地区・[[奄美諸島|奄美地区]]にも艦載機の空襲があった<ref name="rikugun206">[[#陸軍|『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』]]、206頁。</ref>。その後、日本軍の索敵機が、同日午前10時30分に沖縄本島南東90kmに機動部隊を発見、さらに夕刻沖縄本島東方100kmに艦艇群(艦種不詳)も発見している<ref name="rikugun206" />。
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第32軍司令部消滅後の6月23日から、アメリカ軍は沖縄南部の残存日本兵の掃討作戦を開始した。いまや孤立化し組織的抵抗ができなくなった日本軍の陣地を、ひとつずつ爆薬で日本兵ごと生き埋めにするか、火炎放射器で焼き払った。またサトウキビ畑や水田に隠れている日本兵も1名ずつ燻り出した。陣地から突撃しアメリカ軍の前線を突破しようとした日本軍部隊と激戦になることもあったが、6月30日までには日本軍の抵抗は微弱となった。この掃討作戦で日本兵8,975名が戦死し、2,902名が捕虜となったが、アメリカ軍の損害は783名であった。日本軍の組織的抵抗は終わったと考えたアメリカ軍は1945年7月2日に沖縄作戦終了を宣告した<ref>[[#外間訳|米陸軍省戦史局(2006年)]]、515頁。</ref>。
 
しかし、この後も残存兵力による散発的な戦闘は本島各地で続いた。これは、第32軍司令部の最後の打電が「親愛なる諸子よ。諸子は勇戦敢闘、じつに3ヶ月。すでにその任務を完遂せり。諸子の忠勇勇武は燦として後世を照らさん。いまや戦線錯綜し、通信また途絶し、予の指揮は不可能となれり。自今諸子は、各々陣地に拠り、所在上級者の指揮に従い、祖国のため最後まで敢闘せよ。さらば、この命令が最後なり。諸子よ、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」と最後までの抵抗を命ずるもので、結果的に終戦まで多くの日本兵や沖縄県民を縛り、多くの犠牲者を出す原因となってしまった{{sfn|大田昌秀 『大田昌秀が説く 沖縄戦の深層』|p=136}}。牛島個人としては「沖縄県民はよく尽くしてくれた。たとえ、日本本土のどこかが戦場になったとしても、これ以上の協力はないであろう。沖縄の住民を戦の道連れにすることは、まことに忍び難い」と語っていたとされるが{{sfn|牛島満伝刊行委員会|1972|p=351}}、戦後の沖縄県民の間には牛島に対し、今も厳しい見方がある<ref>{{cite web |url=https://www.city.okinawa.okinawa.jp/heiwanohi/2524/2526 |title=沖縄戦の実相 |publisher=沖縄市役所 平和・男女共同課 |accessdate=2017-10-20}}</ref>。
しかし、この後も残存兵力による散発的な戦闘は本島各地で続いた。この戦闘継続の原因は、第32軍司令部の最後の命令が「悠久の大義に生きよ」であったことや、指揮系統の崩壊により司令官自決の事実や大本営発表が明確に伝わらなかったためとされる。しかし、摩文仁の司令部ですら混乱状態であり、劣悪な通信状況を考えれば牛島中将の命令が沖縄本島全体に伝わったとは考えにくく、戦闘継続は牛島中将の命令ではなく、個々の判断で行われたのだとする意見もある。いずれにせよ、この指揮系統無き戦闘継続は、民間人を含め死者数を増やすこととなった。
 
陸軍の第8飛行師団隷下[[飛行第10戦隊]]の一〇〇式司偵は、沖縄方面に対する偵察飛行を8月に至るまで継続している<ref>碇義朗 『新司偵 キ46 技術開発と戦歴』 光人社、1997年、p.214</ref>、海軍による特攻機を含む沖縄県方面への航空攻撃も続けられており、7月28日には[[九三式中間練習機]]の体当りで駆逐艦「[[キャラハン (駆逐艦)|キャラハン]]」を沈めているが、これは特攻による最後の撃沈戦果であった<ref>[http://www.ibiblio.org/hyperwar/USN/USN-Chron/USN-Chron-1945.html Cressman (1999) , p. 722.]</ref>。8月12日には第1戦艦戦隊旗艦戦艦「[[ペンシルベニア (戦艦)|ペンシルベニア]]」を[[雷撃機]]による通常攻撃で大破させ、司令官の[[ジェシー・B・オルデンドルフ]]中将に重傷を負わせている<ref>[http://www.ibiblio.org/hyperwar/USN/USN-Chron/USN-Chron-1945.html Cressman (1999) , p. 733.]</ref>。8月15日の[[玉音放送]]後にも、菊水作戦の指揮をとった[[宇垣纏]]海軍中将が部下を引き連れて沖縄方面へ特攻出撃している。
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== 沖縄戦についてのアメリカ軍による評価 ==
[[ファイル:OkinawaInjuredTankHanson Baldwin.jpg|thumb|right|250px|戦車を使って後送される前線でのアメリカ軍負傷従軍記として沖縄戦の最前線で取材し沖縄戦に関する本も執筆した軍事評論家ハンソン・ボールドウィン]]
圧倒的な戦力差があったにもかかわらず、洞窟陣地を利用した粘り強い防御戦闘と反斜面陣地などの巧みな陣地形成で苦戦を強いられたアメリカ軍は、この日本軍の防御戦闘を「歩兵戦闘の極み」と評した。「沖縄作戦の主な戦訓」と題されたアメリカ軍の秘密報告書においては「この戦いはアメリカ軍にとって史上最大の激戦のひとつになった」とも評された<ref>{{Harvnb|ファイファー|1995b|p=345}}</ref>。