「クルト・ヴェス」の版間の差分

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ヴェスがN響の常任になった背景としては、前任者[[ヨーゼフ・ローゼンシュトック]]とは違ったスタイルの指揮者が求められていたこともあるが、N響事務長[[有馬大五郎]]がウィーン留学時代に築き上げたコネクションが大いに関係している。コネクションの是非はともあれ、ヴェスの就任が日響(日本交響楽団)から名称変更したばかりのN響に新風を吹き込んだのは間違いないことである。
 
ヴェスのレパートリーは独墺系楽曲であったが、その中でも一番聴衆に喜ばれたのが[[ウィンナワルツ]]の演奏であった。[[1952年]]1月の特別演奏会で初めてウインナ・ワルツで構成されたプログラムが大好評を博して以来、離任までに演奏会や放送で何度も行われた。当時の日本ではウインナ・ワルツを少々軽く見る風潮もあったようであるが、演奏会の評判によってその認識を変えさせたとも言われている。晩年には、ウィーン・ヨハン・シュトラウス管弦楽団との2回の来日で往年を髣髴とさせた。また、ヴェスには一見地味のようであるが重要な功績がある。それは、ウィーンからの客員奏者4名([[ヴァイオリン|Vn]]:パウル・クリング、[[クラリネット|Cl]]:ロルフ・アイヒラー、[[オーボエ|ob]]:[[ユルク・シェフトライン]]、[[ハープ|hrp]]:ヨゼフ・モルナール)を招聘してN響のアンサンブルの改善を図ったことである。これら客員奏者はアンサンブルの主軸としてのみならず、演奏会ではしばしばソリストとしても出演し、レベルアップに一役買っている。なお、このうちモルナールは日本に残り、日本のハープ奏者育成に多大な貢献をした(主な弟子に[[竹松舞]]他)が、モルナールにはもう一つの顔もあった(トピックス参照)。
 
== トピックス ==