「沖縄戦」の版間の差分

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その後の通達で疎開目標は本土へ8万人と[[台湾疎開]]へ2万人の計10万人と決定された。対象者は、県内に29万人いた60歳以上と15歳未満の者、その看護者である婦女のみが許可され、警察署長の渡航証明書を受けることとされた(県外転出実施要綱)。また、学童集団疎開については、原則として[[国民学校]]3年生〜6年生を対象とし、1、2年生は付き添い不要の者に限られている<ref name="hara" />。
手段は沖縄に兵士や軍需物資を輸送する軍用輸送船の帰路を利用して、日本本土や台湾に疎開させようというものであったが、費用は全額国庫負担で行うことになり、[[大蔵省]][[予備費|第2予備金]]から1500万円を拠出する予算措置が取られた<ref name="rikugun614" />。一般住民の疎開は法的には強制力が無く、県を通じた[[行政指導]]による形式であった<ref name="rikugun615">[[#陸軍|『沖縄方面陸軍作戦』]]、615頁。</ref>。県民が疎開に応じるか不安視した県は、短期間で徹底して遂行するにはある種の威令や組織力・機動力が必要と考え、一般疎開を本来の社事兵事を司る内政部ではなく[[沖縄県警察部|警察部]]に担当させることに決定した。一方、学童疎開は沖縄県庁内政部教学課を主担当として、各市町村、各[[国民学校]]長、部落会、[[隣組|隣保班]]を通じて推進された<ref>{{cite web|url=http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/chap02/sec04/cont00/docu139.htm|title=読谷村史 第四節 県外疎開|publisher=読谷村 |accessdate=2017-10-08}}</ref>。
 
[[ファイル:USS Bowfin.jpg|thumb|right|250px|学童疎開船対馬丸を撃沈したアメリカ軍潜水艦[[ボーフィン (潜水艦)|ボーフィン]]]]
しかし、県民の疎開機運は一向に盛り上がらなかった。理由としては、本土では、貸し家の「琉球人お断り」など沖縄差別も根強く、一家の大黒柱を欠いた状態で身寄りのない本土や台湾に疎開することの不安や、船舶に頼らざるを得ない県外疎開そのものへの不安があったとされる。しかし、[[荒井退造]]沖縄県警察刑務部長を始めとする県の必死の努力により、疎開第1船である「天草丸」は7月21日に警察官、県庁職員の家族ら752人を乗せて那覇港を出港した。続く7月末の疎開第2船での220人、8月初めの第3船での1566人はほとんどが本土に縁故のある人々であった(本土出身者の引き揚げが多くを占めた<ref>沖縄県史料編集室『沖縄戦研究II』</ref>)ものの、その後8月10日に出航した第4次の約9,000人は縁故のない県民が中心となり、ようやく県の努力が実りつつあったが、1944年8月22日の学童疎開船「[[対馬丸]]」撃沈事件(約1500人死亡)でまた沖縄県民に不安が広がった<ref name="rikugun615" />。そのため、疎開希望者の間で辞退する者が続出し、出発日に疎開者が集まらず、疎開船が空船のままで出航することもあるなど、疎開業務が一時頓挫することとなった<ref>{{cite web|url=http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/chap02/sec04/cont00/docu139.htm|title=読谷村史 第四節 県外疎開|publisher=読谷村 |accessdate=2017-10-08}}</ref>。
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住民殺害の動機は、スパイ容疑での処刑が中心で、そのほか物資や壕を巡る日本兵と住民の争いで殺害された事例や、地下壕の探知を避けるために泣き声の止まない子供を殺害した事例などもある<ref>[[#大田昌秀b|大田昌秀(1982年)]]、206頁。</ref>。このような事態に至った原因について、極限状態で不可避というだけの問題ではないとの見方もある。一因として、日本兵が住民に対し、愛国心や武を尊ぶ精神に欠けると見て不信感を抱いていたことや、軍民一体化と防諜のため、[[琉球語|沖縄語]]の使用が禁止され、その使用者を処分する方針であったこともある<ref>[http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kyoukasho/08011106/001.pdf 沖縄戦に関する私見,山梨学院大学 我部政男,平成18年度検定決定高等学校日本史教科書の訂正申請に関する意見に係る調査審議について,資料(14)] 「爾今軍人軍属ヲ問ハズ標準語以外ノ使用ヲ禁ズ、沖縄語ヲ以テ談話シタル者ハ間諜トミナシ処分ス」(球軍会報)</ref>。また、スパイ容疑での処刑については、アメリカ軍収容下に入った住民が食糧集めに駆り出されているのを、アメリカ兵を日本兵の隠れ家へ誘導しているものと戦場の混乱の中で誤解したことが一因ではないかと推定されている<ref>[[#大田昌秀b|大田昌秀(1982年)]]、180-181頁。</ref>。第32軍の沖縄南部への撤退は、戦火を逃れて避難していた沖縄市民の唯一の防護手段を奪うものであって、軍と民間人が混然となることにより、民間人に多くの災厄が降りかかることとなったが、この第32軍の失敗は、琉球人に対する日本の植民地主義的態度と政策に根差していたものという指摘もある<ref>{{Harvnb|ファイファー|1995b|p=275}}</ref>。
 
こういっ一方で、末端の兵士事例が強調されていることちは住民保護対し、沖縄戦に参加尽力てい日本軍兵士から反論主張もある<ref>{{Cite web | url = https://www.chosyu-journal.jp/heiwa/3938 | title = 沖縄・読谷村で原爆展 「集団自決の村」 沖縄戦体験者の深い思い | publisher = [[長周新聞]] | date = 2004-11-16 | accessdate = 2019-06-07 }}</ref>。[[嘉数の戦い]]に参加した兵士の一人(独立歩兵第13大隊所属)は、「戦後、日本軍は沖縄県民に犠牲を強いた悪い兵隊だと宣伝された。しかし私の知るほとんどの下級兵士は自分の命など眼中になく、洞窟に潜んで助けを求める県民のため身を挺して戦った。」<ref>sapio2013年09月号 {{要ページ番号|date=2019年6月7日}}</ref>と述べている。いうまでもなく、すべてひめゆり学徒隊日本兵が残酷であったわけで与那覇百子らなく、沖縄市民と仲良く付き合い善行も行い、犠牲を払った兵士もいた。例えば、沖縄本島の南端の海岸まで追い詰められひめゆり学徒隊の与那覇百子らが手榴弾で自決しようとしたときに、日本軍の敗残兵数人から自決を止められている<ref>{{Harvnb|ファイファー|1995b|p=274}}</ref>。ひめゆり学徒隊の自決を思いとどまらせた日本兵は、彼女らが持っていた手榴弾で自決している<ref name="ryukyu20150301">{{Cite news |title=<未来に伝える沖縄戦>壕に爆弾、先輩が即死 与那覇百子さん(86)(86)(動画)|newspaper=琉球新報 |date=2015-03-01 |url=https://ryukyushimpo.jp/movie/prentry-239645.html?platform=hootsuite |accessdate=2019-06-07}}</ref>。泣き声でアメリカ軍に見つからないよう、「日本軍により幼児が殺された」とする教科書記述にも異説がある。「[[産経新聞]]」によると、匿名を条件に取材に応じたある地方議員は「老人会でのひそひそ話に耳を疑ったことがある。子供が軍命令で殺されたとして遺族年金をもらっている人について『あの人、本当は自分で殺したんだよね』と話し合っていた」と語っている<ref>{{Cite web |url=http://sankei.jp.msn.com/life/education/071015/edc0710152227000-n1.htm |title=検定撤回は将来禍根 米軍施政下「沖縄戦の真実」封印 |publisher=産経新聞 |date=2007-10-15 |accessdate=2007-11-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20071102044728/http://sankei.jp.msn.com/life/education/071015/edc0710152227000-n1.htm |archivedate=2007-11-02 }}</ref>。
 
=== 連合軍による住民の扱い ===