「姚内斌」の版間の差分

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[[遼|契丹]]に仕えて関西巡検・瓦橋関使となった。[[後周]]の[[顕徳]]6年([[959年]])、[[趙匡胤]]の率いる後周軍が北征して瓦橋関を攻撃したとき、内斌は兵500人を率い関門を開いて後周に降伏した。内斌は[[汝州]][[刺史]]に任じられた。離任のさいには、汝州の官吏や民衆が宮殿を訪れて留任を請願した。
 
宋の[[建隆]]元年([[960年]])、内斌の本名が宣祖[[趙弘殷]]の諱の下1字を犯していたため、内斌と改名した。[[李筠]]の乱の鎮圧に従軍し、[[カク州|虢州]]刺史となった。[[慶州]]刺史・青白両池榷塩製置使に任じられた。慶州にあること十数年、[[西夏]]も国境を侵犯しようとせず、「姚大蟲」と号されて武勇をたたえられた。
 
かつて内斌が契丹から降ったとき、かれの妻子はみな契丹にいた。[[乾徳 (宋)|乾徳]]4年([[966年]])、子の姚承讃がひそかに幽州から宋に帰順してきた。乾徳5年([[967年]])、幽州の民の田光嗣らが内斌の子女6人を連れて宋に逃亡してきた。子どもたちは趙匡胤に衣服や金銭を与えられて慶州の内斌のもとに送り届けられた。[[開宝]]4年([[971年]])、内斌は召還されて[[開封]]に帰京した。開宝7年([[974年]])春、突然の病のために死去した。享年は64。