「小栗忠順」の版間の差分

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'''小栗 忠順'''(おぐり ただまさ)は、[[江戸時代]]末期の[[幕臣]]、[[勘定奉行]]、[[町奉行|江戸町奉行]]、[[外国奉行]]。
 
通称は又一。[[安政]]6年([[1859年]])、従五位下豊後守に叙任<ref>小川 696頁</ref>。[[文久]]3年([[1863年]])、[[上野介]]に遷任され、以後'''小栗上野介'''称される改名した。[[三河小栗氏]]第12代当主で、父方の祖父は同じく勘定奉行を務めた[[中川忠英]]。
 
== 概要 ==
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* [[弘化]]4年([[1847年]])4月16日 - [[小栗忠高]]嫡子の身分のまま、西の丸[[書院番]]に登用され、役料300石を支給される。
* [[嘉永]]6年([[1853年]]) - [[進物番]]出役に登用される。[[徳川家定]]に近侍する。
* [[嘉永]]7年([[1854年]]) - 外国船に対する警戒のため、[[浜離宮恩賜庭園|浜御殿]]の警備を担当する。
* [[安政]]2年([[1855年]])
** 7月28日 - 父、忠高が急死。
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** 7月26日 - 外国奉行を辞し、[[旗本寄合席|寄合席]]。
* 文久2年([[1862年]])
** 3月9日 - 小姓組番頭(二番組)に就となる。<ref>柳営補任 一巻 294頁</ref>
** 6月5日 - 小姓組番頭から勘定奉行・勝手方に異動。
** 閏8月4日 - 松平出雲守の代理として、[[朝鮮人]]来聘御用を拝命。
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** 12月10日 - 講武所御用取扱兼帯。
* 文久3年([[1863年]])
** 4月23日 - 勘定奉行・勝手方歩兵奉行講武所御用取扱を辞し、寄合席。
** 7月10日 - 陸軍奉行並とる。
** 7月29日 - 陸軍奉行並を辞し、勤仕並寄合とる。※勤仕並寄合の期間中、豊後守から上野介に遷任改名
* [[元治]]元年([[1864年]])
** 8月13日 - 勘定奉行・勝手方とる。
** 12月18日 - 軍艦奉行に異動。
* 元治2年([[1865年]])
** 1月 - [[横須賀造船所|横須賀製鉄所]]御用掛に[[栗本鋤雲|栗本瀬兵衛]]らと共に任ぜられる。29日には、フランスと製鉄所建設の約定を交わす。
** 2月21日 - 軍艦奉行を辞し、寄合と就る
** 改元して[[慶応]]元年5月4日 - 勘定奉行・勝手方とる。
* 慶応2年([[1866年]])4月、[[兵庫商社]]設立の建議書を幕府に提出。関税税率改定交渉に主要人物として参加。
** 6月5日、兵庫商社を設立し、役員を任命する。