「川路聖謨」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
36行目:
また、勘定吟味役の職務の関係で西洋諸国の動向に関心を持つようになり、当時の海外事情や西洋の技術などにもある程度通じていた。なお[[江川英龍]]や[[渡辺崋山]]らと共に[[尚歯会]]に参加し、[[天保]]10年(1839年)の[[蛮社の獄]]にあやうく連座しかけたという通説があるが、川路や江川は尚歯会に参加しておらず、また蛮社の獄は尚歯会を標的としたものではないため、川路が蛮社の獄に連座する可能性はなかったとする説もある<ref>[[田中弘之]]『「蛮社の獄」のすべて』(2011年 吉川弘文館)</ref>。
水野忠邦が[[天保の改革]]で挫折して失脚した後、[[遠国奉行#奈良奉行|奈良奉行]]に左遷されている。嘉永2年(1849年)、『神武御陵考』を著した。本人の説明によればミサンザイ、丸山、塚山の三説が鼎立するなか、
その後、[[大坂町奉行|大坂東町奉行]]を経て、[[嘉永]]5年([[1852年]])、公事方[[勘定奉行]]に就任。家禄が200俵(200石相当)から500[[石 (単位)|石]]の[[知行]]取に加増された(当時幕府の内規により[[遠国奉行]]就任で200俵、[[江戸町奉行]]・勘定奉行就任で500石へ加増)。翌嘉永6年([[1853年]])、[[阿部正弘]]に[[海岸防禦御用掛]]に任じられ、[[黒船来航]]に際し開国を唱える。また同年、長崎に来航したロシア使節[[エフィム・プチャーチン]]との交渉を[[大目付]]格[[槍奉行]]の[[筒井政憲]]、[[勘定吟味役]]・[[村垣範正]]、[[遠国奉行#下田奉行・浦賀奉行|下田奉行]]・[[伊沢政義]]、儒者・[[古賀謹一郎]]と共に担当し、[[安政]]元年([[1854年]])に下田で[[日露和親条約]]に調印。その際ロシア側は川路の人柄に大変魅せられたという(下記「[[#人物・逸話|人物・逸話]]」参照)。
|