「川路聖謨」の版間の差分

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また、勘定吟味役の職務の関係で西洋諸国の動向に関心を持つようになり、当時の海外事情や西洋の技術などにもある程度通じていた。なお[[江川英龍]]や[[渡辺崋山]]らと共に[[尚歯会]]に参加し、[[天保]]10年(1839年)の[[蛮社の獄]]にあやうく連座しかけたという通説があるが、川路や江川は尚歯会に参加しておらず、また蛮社の獄は尚歯会を標的としたものではないため、川路が蛮社の獄に連座する可能性はなかったとする説もある<ref>[[田中弘之]]『「蛮社の獄」のすべて』(2011年 吉川弘文館)</ref>。
 
水野忠邦が[[天保の改革]]で挫折して失脚した後、[[遠国奉行#奈良奉行|奈良奉行]]に左遷されている。嘉永2年(1849年)、『神武御陵考』を著した。本人の説明によればミサンザイ、丸山、塚山の三説が鼎立するなか、国学の巨人である[[本居宣長]]が『古事記伝』においてスイセン塚古墳を神武陵としたことへの批判が執筆した動機としている。考古学、歴史<ref>ならの地にて和をなし真淵契沖ら分野では文久こときも修陵事業一人あらは大なる益あるの橋渡し役きに二百年来学者あるこしてをきかす故に宣長か神武位置づけがなれてさき(陵)を大にあやまりしにたれり神武御陵考をわれこの頃書たり</ref>。また、民政にも尽くした。乱伐により[[はげ山]]になっていた[[多聞山城]]跡に約50万本を植樹し、[[佐保川]]には今日「川路桜」と呼ばれる桜の樹を植えた。[[博打]]を厳しく取り締まるとともに貧民救済に取り組んだ。このため「五泣百笑([[博徒]]や悪徳僧侶・役人・商人、裁判の短期化で泊まり客が減った[[公事宿]]の五つが泣き、[[百姓]]が笑う)の奉行」と慕われた。奈良奉行時代の日記『寧府紀事』が[[宮内庁書陵部|宮内庁図書寮文庫]]に残る<ref>「川路聖謨 奈良の寄り道/民のために生きた官僚の実像」『日本経済新聞』朝刊2018年9月2日(NIKKEI The STYLE)。</ref>。
 
その後、[[大坂町奉行|大坂東町奉行]]を経て、[[嘉永]]5年([[1852年]])、公事方[[勘定奉行]]に就任。家禄が200俵(200石相当)から500[[石 (単位)|石]]の[[知行]]取に加増された(当時幕府の内規により[[遠国奉行]]就任で200俵、[[江戸町奉行]]・勘定奉行就任で500石へ加増)。翌嘉永6年([[1853年]])、[[阿部正弘]]に[[海岸防禦御用掛]]に任じられ、[[黒船来航]]に際し開国を唱える。また同年、長崎に来航したロシア使節[[エフィム・プチャーチン]]との交渉を[[大目付]]格[[槍奉行]]の[[筒井政憲]]、[[勘定吟味役]]・[[村垣範正]]、[[遠国奉行#下田奉行・浦賀奉行|下田奉行]]・[[伊沢政義]]、儒者・[[古賀謹一郎]]と共に担当し、[[安政]]元年([[1854年]])に下田で[[日露和親条約]]に調印。その際ロシア側は川路の人柄に大変魅せられたという(下記「[[#人物・逸話|人物・逸話]]」参照)。