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[[1943年]](昭和19年)4月に、「故園」「夕日」などで第6回(戦後最後の)[[菊池寛賞]]を受賞した。戦時中、[[隣組]]長、防火班長を経験した。この年は、戦争が激しくなる中で、時勢に多少反抗する気持ちもありつつ『[[源氏物語]]』や[[日本の中世文学史|中世文人]]の文学などの文章に親しむことが多かった<ref name="shounen"/><ref name="aishu">「哀愁」(社会 1947年10月号)。『哀愁』(細川書店、1949年12月)、{{Harvnb|随筆2|1982|pp=388-396}}、{{Harvnb|随筆集|2013|pp=430-441}}に所収</ref>。7月から「東海道」が『満州日日新聞』に連載開始された。この作品の中で川端は、〈[[大和魂]]といふ言葉や、[[大和心]]といふ言葉は、[[平安時代]]にできたんだよ。しかも女が書いてゐるんだ〉と書いている<ref>「東海道」(満州日日新聞 1943年7月20日-10月31日号)。{{Harvnb|小説23|1981|pp=361-472}}に所収。{{Harvnb|小谷野|2013|pp=331-332}}に抜粋掲載</ref>。12月25日に[[片岡鉄兵]]が旅先で死去した(50歳没)。[[東京駅]]に片岡の[[遺骨]]を迎えて、車中から家屋や橋が爆弾でやられた跡を見ながら川端は[[荻窪 (杉並区)|荻窪]]へ向かった<ref>「片岡鉄兵の死」(新文學 1945年3月号)。{{Harvnb|評論1|1982|pp=211-217}}、{{Harvnb|随筆集|2013|pp=188-195}}に所収</ref>。
 
戦時下の時代には、文芸も完全な統制下に置かれ、[[谷崎潤一郎]]の『[[細雪]]』や、『源氏物語』などが[[発禁]]となっていた<ref name="itaga15"/>。多くの文学者が[[大日本帝国陸軍|陸軍]]・[[大日本帝国海軍|海軍]]の報道班員として徴用され、なかには進んで[[自由主義]]的な作家の摘発に努めた作家もいる中、川端は極端な影響はされずに、暗い時代の流れを見据えながらも、少しずつマイペースで『名人』などの自分の作品を書き継いでいった<ref name="itaga15"/>。しかし、時世的に川端も戦争協力を避けることはできず、1942年の開戦記念日に連載が開始された連載「英霊の遺文」は「戦死者の遺文集を読みながら、私は12月8日を迎へる。新聞社から頼まれてのことだが、自分としても、この記念日にふさはしいことだと思ふ。しかし、これらの遺文について、あわただしい感想を書かねばならぬのは、英霊に対する黙禱のつつしみも失ふやうで心静かではない」といった「戦争」や「英霊」を賛美するような川端の言葉で始まり([[東京新聞]] 1942年12月8日)、全20回に渡って同新聞の紙面を飾っている。[[1944年]]からは「[[日本文学振興会]]」の制定した「戦記文学賞」の選者にもなっている{{refnest|group="注釈"|1945年7月20日の第1回目の受賞者は[[プロレタリア文学|プロレタリア作家]]から戦記作家に転向した[[里村欣三]]、里村は1940年7月に発表した自身の[[日中戦争]]での従軍記『第二の人生』で[[芥川賞]]にノミネートされながらも受賞作品を逃している。その後、里村再度召集されて、[[マレー]]、[[シンガポール]]、[[フィリピン]]を転戦しながら戦記を書き続け、1945年2月に[[ルソン島]]で戦死したため、戦記文学賞受賞理由を「報道戦における殊勲とその壮烈な戦死に対して」としてその「功績」に対して表彰し、遺族に賞金500円と記念品を遺贈した。なおこの第1回だけで終戦により廃止となっている。([[朝日新聞]] 1945年7月20日)}}<ref>{{Harvnb|李聖傑|2010|p=108}}</ref>。この「戦記文学賞」は「大東亜戦争下、我国文人の使命も亦極めて重大にして、一管の筆能く崇高壮大なる聖戦の姿と精神とを把握し、百世に恥ぢざる赫奕たる文勲を樹てざるべからず」といった制定目的にも述べられている通り戦争協力のために作られた賞で、選者となった川端も「戦記文学の今日の意義と使命は言ふまでもない。ただ文学者として思ふことは、多くの戦記が十分大切にされてゐぬ憾みはないか。民族の宝を散佚埋没に委ねてはゐないか。この賞によつて、今日のため、後世のためそれを尚大切にする発燭を得れば幸ひである」などとこの賞の目的に沿うような決意を書いている<ref>「戰記分學賞制定發表」(文藝春秋 1944年6月號)p.45</ref>。
 
[[ファイル:Yamaoka Sohachi.jpg|thumb|right|130px|従軍記者として鹿児島の鹿屋基地で一緒に取材活動をした山岡荘八]]