「タケミナカタ」の版間の差分

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[[ファイル:Shinpukuji-bon Kojiki (真福寺本古事記).png|left|200px|サムネイル|<center>建御名方神が登場する場面<br/>([[真福寺 (羽島市)|真福寺]]本『古事記』より)</center>]]
=== 国譲り ===
タケミナカタは『[[古事記]]』では[[葦原中国平定]]('''国譲り''')の場面で記述されている。これによると、[[天照大御神]]・[[高御産巣日神]](タカミムスビ)らによって派遣された建御雷神(タケミカヅチ)と[[天鳥船神]](アメノトリフネ)が大国主神に葦原中国の国譲りを迫った際、大国主神は御子神である事代主神が答えると言った。事代主神が承諾して隠れると、大国主神は次に建御名方神(タケミナカタ)が答えると言った<ref name="古事記"/>。タケミナカタは千引の石(千人もの大勢の力を必要とするような巨大な岩)を手先で差し上げながら現れ、タケミカヅチに力競べを申し出た。そしてタケミカヅチの手を掴むと、タケミカヅチの手は氷や剣に変化した。タケミナカタがこれを恐れて下がると、タケミカヅチはタケミナカタの手を若葦のように握りつぶして、放り投げた([[タケミナカタ#力競べ|詳細は後述]])。タケミナカタは逃げ出したが、タケミカヅチがこれを追い、ついに[[信濃国|科野国]]の'''[[諏訪湖|州羽海]]'''(すわのうみ)まで追いつめてタケミナカタを殺そうとした。その時に、タケミナカタはその地から出ない旨と、大国主神・事代主神に背かない旨、葦原中国を[[ニニギ|天津神の御子]]に奉る旨を約束したという<ref name="古事記">『新編日本古典文学全集 1 古事記』小学館、2004年(ジャパンナレッジ版)、p. 107-111。</ref>。
 
一方『[[日本書紀]]』ではタケミナカタが一切登場せず、大己貴神(大国主)事代主神が穏やかの意向を聞いた後に国りを承諾する。ここでは高皇産霊尊(タカミムスビ)に遣わされた神々は武甕槌神(タケミカヅチ)と[[経津主神]](フツヌシ)である。
 
『[[先代旧事本紀]]』「[[天神本紀]]」では『古事記』と『日本書紀』の記述が組み合わされたものが書かれており、使者は『書紀』と同様に武甕槌神と経津主神となっている<ref>「[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991097 先代旧事本紀 巻第三 天神本紀]」『国史大系 第7巻』経済雑誌社、1898年、222-223頁。</ref><ref>[[宮地直一]]『[https://books.google.co.jp/books?id=4hBVjsO2GOgC 諏訪史 第2巻 前編]』信濃教育会諏訪部会、1931年、82頁。</ref>。
 
==== 異伝・変奏 ====
『旧事本紀』における国譲り神話は『'''[[諏方大明神画詞]]'''』(1356年成立)の冒頭に採用されているが、タケミナカタの敗戦と逃亡、追いつめられ殺されようとした話は見られない。諏訪大社の祭神として『画詞』には載せるには不適当と考えたもので編纂者の[[諏訪円忠]]が削除したと考えられる<ref>諏訪市史編纂委員会 編『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、695-696頁。</ref>。
 
[[File:Suwako2.jpg|thumb|250px|right|{{Center|[[諏訪盆地]]と[[諏訪湖]]}}]]
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「又申すべき我が子ありや。」<br />
又我が子、建御名方<small>諏方社</small>神、千引の石を手末に捧げ来りて申さく、「誰、この我が国に来たりて忍び忍びにかく云ふは。而して力競べせんと思ふ。」<br />
先づ、その御手を取りて即ち氷を成り立て、又剣を取り来て{{efn|原文では「剱ヲ取耒」。善本とされる権祝本とは別系統の梵舜本では「剱ヲ取成」とあり、これのほうが『古事記』と『旧事本紀』の文章(「即取成立氷、亦取成剱刃」)と一致する。}}、科野の国・洲羽の海に至る時、建御名方の神申さく、「我、この国を除きては他処に行かじ」と云々。これ則ち〔当社〕垂迹の本縁なり。<ref name="Yamashita">山下正治「[https://ci.nii.ac.jp/els/110007324031.pdf?id=ART0009178568&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1365910179&cp= 訓読・諏訪大明神絵詞 (一)]」『立正大学人文科学研究所年報 別冊』16号、2006年、9-18頁。</ref><ref name="Kanai">金井典美「「諏訪大明神絵詞」梵舜本と権祝本の異同対照」『諏訪信仰史』名著出版、1982年、 218-277頁。</ref><ref name="Hanaya">塙保己一編「[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936498/45 続群書類従巻七十三 諏訪大明神絵詞]」『続群書類従 第3輯ノ下 神祇部』続群書類従完成会、1925年、494-539頁。</ref></blockquote>
 
中世以降に書かれた『信濃国日向社伝記』{{efn|「太古皇孫[[ニニギ|邇々杵尊]]君臨于神州之時、有[[大国主神]]者、在[[出雲国|八雲立出雲国]][[出雲大社|八百米杵築宮]]、詔□武南方富命賜[[信濃国|科野国]]、使以開□之命、乃従命到科野国在須羽、而徧巡視国形……乃決排湖水、鏟<small>(ママ)</small>低山岳誅罰邪神、駆猛獣悪魚<small>云</small>……」}}や『上社権祝本諏訪縁起断簡』{{efn|「父大神(大国主命)曰、早可行于野国、則辞御許、与妃神・御子神等率諸神巡[[越国|高志国]]奉[[沼河比売|沼河姫神]]種々品物、逐自小谷入野国洲羽海辺、定御殿弥益為国造之事、……」}}には、大国主がタケミナカタに科野国の平定を命じたという異伝が見られる<ref>宮地直一『[https://books.google.co.jp/books?id=UHYSgY4lTZcC 諏訪史 第2巻 後編]』信濃教育会諏訪部会、1937年、45頁。</ref>。また春瑜筆『日本書紀私見聞』<ref>{{cite web|url=http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/bunkazai/da/daItemDetail?mngnum=730956&pageCur=5|title=日本書紀私見聞(道祥自筆本)・日本書紀私見聞(春瑜自筆本)|website=守ろう!活かそう!三重の文化財|author=三重県教育委員会|access-date=2019-01-31}}</ref>には、[[山王権現|山王]]{{efn|ここでは[[大物主神]]、すなわち大国主を指す。}}の三男・「諏防大明神」は日本国を我が物にしようとして軍を起こしたが、天照大神に打ち負かされた後に降参し、信乃(信濃)国を賜ってここに鎮座することを約束するというバリエーションが録されている<ref>宮地直一『諏訪史 第2巻 後編』信濃教育会諏訪部会、1937年、47頁。</ref><ref>『[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1142341/19 日本書紀私見聞 春瑜本]』貴重図書複製会、1938年。</ref>。
 
長野県内各地にはタケミナカタの逃亡・諏訪入りにまつわる伝承のある場所がいくつか存在する<ref>宮地直一『諏訪史 第2巻 前編』信濃教育会諏訪部会、1931年、117-122頁。</ref>。[[下伊那郡]][[豊丘村]]に伝わる伝承によれば、タケミカヅチがようやくタケミナカタに追いついたところ、タケミナカタが降参し、タケミカヅチと和睦を結んだ。同村にある御手形神社には、終戦の印として両者の[[手形]]を彫り残したといわれる石がある。その後、タケミナカタが豊丘村から隣の[[大鹿村]]に移って、しばらくそこに滞在したという<ref>{{Cite web |url=http://www.ja-mis.iijan.or.jp/gotominami/hometown/2016/11/post_140.php |website=JAみなみ信州 |title=国護りと天孫降臨の神話ー御手形石ー |accessdate=2018-12-01}}</ref><ref>『[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765237/30 南信伊那史料 巻之下]』佐野重直編、1901年、55頁。</ref>。このことから、大鹿村鹿塩梨原にある葦原神社はかつて「{{読み仮名|本|もと}}諏訪社」と呼ばれていた。この他にも、[[塩尻市]]の[[小野神社・矢彦神社|小野神社]]や<ref>宮地直一『諏訪史 第2巻 前編』信濃教育会諏訪部会、1931年、119頁。</ref><ref> 赤羽篤「小野神社」『日本の神々―神社と聖地〈9〉美濃・飛騨・信濃』谷川健一編、白水社、1987年、379-380頁。</ref>、[[上田市]]の[[生島足島神社]]<ref>{{Cite web |url=http://www.ikushimatarushima.jp/jinja/|website=生島足島神社公式ホームページ|title=生島足島神社について|accessdate=2018-12-02}}</ref>にはタケミナカタが諏訪に入る前に一時滞留したという伝承が語られている。[[北安曇郡]][[小谷村]]にある大宮諏訪神社も、タケミナカタの信濃入りの際の神跡と伝えられる<ref>{{Cite web |url=http://www.nagano-jinjacho.jp/shibu/02cyusin/01taihoku/oomiyasuwa.html|website=長野県神社庁|title=大宮諏訪神社|accessdate=2018-12-02}}</ref>。
 
[[徳島県]][[名西郡]][[石井町]]にある[[多祁御奈刀弥神社]]にも「元諏訪」伝承がある。社殿によると、『古事記』に書かれている「州羽」は当社の事を指し、長野県にある諏訪大社はこの神社から[[宝亀]]10年(779年)に移遷されたものだという。
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『古事記』と『旧事本紀』では征服される神として描かれるタケミナカタは、諏訪地方に伝わる伝承では現地の神々を征服する神として登場する。
 
いわゆる'''明神入諏神話'''を記録した現存する最古の記録文献は、[[宝治]]3年(1249年)に上社{{読み仮名|大祝|おおほうり}}の[[諏訪信重]]から鎌倉幕府に提出されたといわれている『'''[[諏訪信重[[解状]]'''』(『大祝信重解状』、『大祝信重申状』とも)である<ref>諏訪市史編纂委員会 編「第八節 「諏訪信重解状」と『諏方大明神画詞』」『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、811-814頁。</ref><ref name="Miyasaka">宮坂光昭『諏訪大社の御柱と年中行事』郷土出版社、1992年、91-93頁。</ref>。これによると、神宝(鏡・鈴・[[鞍|唐鞍]]・[[轡]])を持参して[[守屋山]]に天降った諏訪明神は、守屋大臣([[守矢氏]]の遠祖とされる'''[[洩矢神]]''')と争論・合戦・力競べをして、その領地を手に入れた<ref name="Miyasaka" /><ref name="SuwaShishi682">諏訪市史編纂委員会 編「第二節 諏訪神社上社・下社」『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、682-683頁。</ref><ref name="Yamamoto">山本ひろ子「[https://wako.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=4029&item_no=1&page_id=13&block_id=55 中世諏訪社の一考察 : 失われた芸能と伝承を求めて]」『東西南北 : 和光大学総合文化研究所年報 2016』[[和光大学]]、2016年、[29-31] 215-213頁。</ref>。
 
<blockquote>一 守屋山麓御垂迹の事<br />
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[[File:Fujishima_Shrine_(Nakasu,_Suwa)_-_藤島社(諏訪市中洲)-_2.jpg|サムネイル|{{Center|藤島社(諏訪市)}}]]
この話は『諏方大明神画詞』「祭 第三夏 下」のうち、6月晦日に摂社'''[[藤島神社 (諏訪地方)#藤島社(諏訪市)|藤島社]]'''([[諏訪市]]中洲神宮寺)で行われるお田植神事の項にも出てくる。ここでは両者が手にしていた「藤鎰」と「鉄鎰」が「藤の枝」と「鉄輪」に変わっており、『信重解状』にとって肝心の守屋山への降臨が語られない<ref>福田晃、二本松康宏、徳田和夫編『諏訪信仰の中世―神話・伝承・歴史』三弥井書店、2015年、124頁。</ref>。
 
<blockquote>{{読み仮名|抑|そもそも}}この藤島の明神と申すは、尊神垂迹の昔、洩矢の悪賊、神居をさまたげんとせし時、洩矢は鉄輪を持して争ひ、明神は藤の枝をとりて是を伏し給ふ。ついに邪輪を降ろして正法を興す。明神誓いを発して藤枝をなげ給ひしかば、即ち根をさして枝葉をさかへ、花蘂あざやかにして戦場のしるしを万代に残す。藤島の明神と号するこのゆえなり。<ref name="Hanaya" /><ref>諏訪教育会編「諏方大明神画詞]」『諏訪史料叢書 巻2』1926年、39頁。</ref></blockquote>
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また、[[江戸時代]]に書かれた伝承記録には、守屋大明神(洩矢神)と藤島大明神(諏訪明神)が相争った際に[[天竜川]]の両側に立つ藤の木を絡ませたという異伝も見られる<ref name="Yamamoto" />。
 
<blockquote>天龍川を覆ひし藤の木の事<br/>
橋原村に鎮座する[[洩矢神社|守屋大明神]]と川向うなる何某の神、中あしく〔仲悪しく〕おはせし。こなたの藤の木、むかひの藤の木とからみしさま、両神の争ひ給ひしやうに覚ふべし、と古老のいふとなん。此の守屋の神、はじめは大明神を拒み給ひて、後に服従し給ひし神也。此の藤まとひて川を覆ひし間、四・五[[町_(単位)#長さの単位|丁]]も川の水を見る事なかりしといふ。[[元和]]以来、侯命ありて伐らせ給ひしといふ。<small>(『洲羽事跡考』)</small></blockquote>
 
『旧事本紀』の国譲り神話を諏訪上社の縁起として採用した『画詞』は、諏訪でも神官家で広く読まれ、結果的にそれにおけるタケミナカタの説話が通説となり、古来から地元に伝わる入諏神話は影が薄くなった<ref>諏訪市史編纂委員会 編「第二節 諏訪神社上社・下社」『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、689頁。</ref>。
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諏訪上社の祭神であるタケミナカタは[[諏訪神党|神氏]](じんし・みわし)の祖神とされ、神氏の後裔である[[諏訪氏]]はじめ[[他田氏]]や[[保科氏]]など諏訪神党の[[氏神]]としても信仰された。
 
明治の初め頃まで、諏訪上社には{{読み仮名|'''大祝'''|おおほうり}}という職位があり、これをつとめる諏訪氏氏身の者(主に童男)は諏訪明神(タケミナカタ)の身代わり、すなわち[[神体]]ないし[[現人神|生き神]]として信仰の対象であった。
 
伝承によると、諏訪明神が8歳の童男に御衣自分の装束脱ぎ着せて、祭神自分の「'''御正体」として神格化させ、定めたことにより大祝職成立した。このことから大祝は代々、{{読み仮名|'''御衣着祝'''|みそぎほうり}}とも呼ばれ、「神」という姓を名乗り、即位式を行い職を相次いできた<ref> 諏訪市史編纂委員会 編『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、717頁。</ref>。
 
『信重解状』では、天降った後の諏訪明神のあり方としてこの伝承が語られているが、時代も初代大祝の名前が書かれていない。
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右、大明神御垂迹以後、{{読み仮名|人神|ひとがみ}}と現れ{{読み仮名|御|たま}}ひ、国家の鎮護眼前たるの処、機限に鑒み、御体隠居の刻、御誓願に云はく、「我に別鉢無し、祝を以て御体と為すべし。我を拝せんと欲せば、須らく祝を見るべし」云々。仍て神字を以て祝の[[姓]]に与へ給ふの刻、明神の口筆を以て、祝をして神事の記文を注し置かしむ。<small>大宣(おほのつと)と号す</small>而して宗たる御神事の時は、毎年大祝彼の記文を読み上げ奉り、天下泰平の祈請を致す十ヶ度なり。社壇の明文只之にあり。<small>(原漢文)</small><ref>伊藤富雄「第四編 上代の下諏訪」『下諏訪町誌 上巻』下諏訪町誌編纂委員会編、甲陽書房、1963年、570-571頁。</ref><ref>宮坂清通「別編 諏訪神社の歴史」『下諏訪町誌 上巻』下諏訪町誌編纂委員会編、甲陽書房、1963年、1056頁。</ref></blockquote>
 
いっぽう『諏方大明神画詞』「祭第一 春上」と『神氏系図(前田氏本)』においては、'''[[有員]]'''という人が初代大祝とされている。
 
<blockquote>祝(はふり)は神明の垂跡の初め、御衣を八歳の童男に脱ぎ着せ給ひて、大祝と称し、「我に於いて体なし、祝を以て体とす」と神勅ありけり。
これ則ち{{読み仮名|御衣祝|みそぎはふり}}有員(ありかず)、神氏の始祖なり。家督相次ぎて今にその職を忝くす。<ref name="Hanaya" /><ref name="Kanai" /></blockquote>
 
他文献によるとでは、有員は[[桓武天皇|桓武]]・[[平城天皇]]の時代の人物であとされている{{efn|『前田氏本神氏系図』のように[[用明天皇|用明]]の御代に生きていた人とする文献もある。}}<ref>北村皆雄「「ミシャグジ祭政体」考」『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古代部族研究会編、人間社、2017年、102-103頁。</ref>。桓武天皇の皇子とする文書もあるが<ref>宮地直一『[https://books.google.co.jp/books?id=UHYSgY4lTZcC&pg=PA44#v=onepage&q&f=false 諏訪史 第2巻 後編]』信濃教育会諏訪部会、1937年、92-95頁。</ref><ref>金井典美「諏訪信仰の性格とその変遷―諏訪信仰通史―」『諏訪信仰の発生と展開』古代部族研究会編、人間社、2018年、72-78頁。</ref><ref>諏訪教育会編『[https://books.google.co.jp/books?id=u2Mf7Ef60FkC&pg=PA11 諏訪史年表]』諏訪教育会、1938年、11-12頁。</ref>、史実では[[坂上田村麻呂]]を通じて朝廷に接近した上社中興の祖ではないかと思われる<ref>諏訪市史編纂委員会 編『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、712-713頁。</ref>。
 
これに対して『異本[[阿蘇氏#上古の氏としての阿蘇氏|阿蘇氏]]系図』と『神氏系図(大祝家本)』は、[[科野国造]]家([[金刺氏]])出身の{{読み仮名|熊古'''神子'''|くまこ}}{{efn|「熊子」「神子熊古」とも表記される。}}、または{{読み仮名|'''乙頴'''|おとえい}}が初代大祝で、[[用明天皇]]2年([[587年]])に社壇を設けたとする。ここでは有員その子孫に当たる<ref>諏訪市史編纂委員会 編『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、711-712頁。</ref><ref>金井典美「諏訪信仰の性格とその変遷―諏訪信仰通史―」『諏訪信仰の発生と展開』古代部族研究会編、人間社、2018年、38-47頁。</ref>。
 
[[ファイル:御射山神社鳥居 - panoramio.jpg|左|サムネイル|{{Center|御射山神社鳥居([[富士見町]])}}]]
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諏訪明神の出自を異国([[天竺]])に求める中世の説話も存在する。
 
[[嘉禎]]4年(1238年)の奥書を識す『'''諏訪上社物忌令之事'''』<ref name="Takei">武井正弘「[https://ci.nii.ac.jp/lognavi?name=jstg&lang=en&type=pdf&id=https%3A%2F%2Fdoi.org%2F10.20807%2Ficmrb.9.0_121&naid=110008434555 祭事を読む―諏訪上社物忌令之事―]」『飯田市美術博物館 研究紀要』、9(0)、1999年、121-144頁。</ref>によると、「建御名方明神」は本来、天竺にある{{読み仮名|波提|はだい}}という国の王であった。王が7月末頃に[[鹿野苑]]で狩りを催したとき、「守屋逆臣」が反乱を起こす。王はその難を逃れて、広大なる慈悲の名を世に示した。後に[[ペルシャ|波斯国]]で悪龍を倒し、「諏訪皇帝」となる<ref name="chusei">福田晃、二本松康宏、徳田和夫編『諏訪信仰の中世―神話・伝承・歴史』三弥井書店、2015年、114-115頁。</ref>。「東方金色山」で善苗を殖え、成仏した皇帝はやがて日本に渡来し、[[摂津国|摂津]]の海辺([[住吉大社|住吉]])、[[西宮神社|西宮]]、[[美濃国|美濃]]の高山([[南宮大社|南宮]])を経由して信濃にある諏訪郡にたどり着き諏訪明神となった<ref name="Miyachi8485">宮地直一『諏訪史 第2巻 後編』信濃教育会諏訪部会、1937年、84-85頁。</ref>。
 
同じような話は『諏方大明神画詞』「祭第六 秋下」にも[[諏訪大社#年間祭事|御射山祭]]の由緒として説かれている。ここでは逆臣の名前が「美教」となっており、狩りこそが畜類済度の[[方便]]である、と王が天に訴えると、[[梵天]]に遣わされた[[四天王]]が逆臣を誅して王を救った、と書かれている<ref name="chusei" />。
 
『上社物忌令』における悪龍の退治の話が『画詞』には見られず、同じ編者による『'''諏方大明神[[講式]]'''』<ref> 「諏方大明神講式」『神道大系 神社編30 諏訪』竹内秀雄編、神道大系編纂会、1982年、237-249頁。</ref>では採り上げられている。しかし、「当社縁起」といいながらも、作者が分からず、そうかといって無視・黙殺もできないシロモノ扱いされている。(一方、『旧事本紀』におけるタケミナカタの諏訪への隠棲の記述を「不可疑(疑フベカラズ)」と言い切っている。)これは『画詞』が典拠にこだわりながら撰述されたものが故に、出典不明のこの話を『画詞』に載せるのに躊躇したのかもしれないと思われる<ref>福田晃、二本松康宏、徳田和夫編『諏訪信仰の中世―神話・伝承・歴史』三弥井書店、2015年、115-116頁。</ref>。
 
『講式』では、波提国王が[[釈迦如来]]の祖父である[[:en:Sihahanu|獅子頬王]]の玄孫とされている<ref name="chusei2728">福田晃、二本松康宏、徳田和夫編『諏訪信仰の中世―神話・伝承・歴史』三弥井書店、2015年、27-28頁。</ref>([[輪王寺|日光輪王寺]]蔵『諏訪神道縁起』<ref>諏訪教育会編「[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1185900/41 諏訪神社縁起上下巻]」『諏訪史料叢書 巻26』1937年、54-64頁。</ref>にも同じ説が見られる<ref name="chusei2728" /><ref name="Miyachi8485" />)。また、天竺で謀反を起こした美教大臣が日本に渡り、明神と相争った「洩矢の悪賊」になったとも述べられている<ref name="chusei" />。
 
諏訪明神の口述といわれ、中世の御射山祭に大祝が読み上げた『{{読み仮名|'''陬波御記文'''|すわみしるしぶみ}}』<ref name="kanaimishirushibumi">金井典美「金沢文庫古書「陬波御記文」と「陬波私注」」『諏訪信仰史』名著出版、1982年、122-191頁。</ref>では、「陬波大王」が[[甲午]]を期して姿を隠したと言われている。更に『御記文』の注釈書『陬波私注』(鎌倉時代末期)<ref name="kanaimishirushibumi" />によれば、陬波大王が生まれたときの[[干支]]も同じく甲午だったという<ref>福田晃、二本松康宏、徳田和夫編『諏訪信仰の中世―神話・伝承・歴史』三弥井書店、2015年、116-117頁。</ref>。
 
なお、『陬波私注』では大祝有員が諏訪明神をともなって天竺から日本へやってきて、明神の叔父にあたる「{{読み仮名|続旦|そくたん}}大臣」とされている<ref>福田晃、二本松康宏、徳田和夫編『諏訪信仰の中世―神話・伝承・歴史』三弥井書店、2015年、118-119頁。</ref>。
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蝦蟆神成大荒神、乱悩天下時、大明神彼ヲ退治御座し時、四海静謐之間、陬波ト云字ヲ{{読み仮名|波陬|なみしづか}}なりと読り、口伝多し。望人ハ尋へし、于今年々災を除玉ふ、謂ニ蟇狩是ナリ。<small>(『上社物忌令』(神長本)より)</small><ref name="hara">原正直『龍蛇神:諏訪大明神の中世的展開』人間社、2012年、18頁。</ref><ref name="chusei118">福田晃、二本松康宏、徳田和夫編『諏訪信仰の中世―神話・伝承・歴史』三弥井書店、2015年、118頁。</ref></blockquote>
 
つまり、諏訪明神が大荒神となって天下を悩ませている「'''蝦蟆(蛙)神'''」を退治して、四海が静謐となった。このことから「波しずか」とも読める「{{読み仮名|陬波|すわ}}」という名を得た。口伝によると、元旦に行われる'''[[諏訪大社#年間祭事|蛙狩神事]]'''はこの出来事を模した神事である<ref name="hara" />。
 
更に明神が退治した蝦蟆神を[[竜宮城]]に通ずる穴に閉じ込め、石でふたをし、その上に座した、ともいわれている<ref>金井典美『諏訪信仰史』名著出版、1982年、177頁。</ref>。
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諏訪の神が巨大な蛇あるいは龍として登場する民話も[[長野県]]や[[群馬県]]などでは存在する。とある話によると、[[神無月]]に神々が出雲に集ったとき、諏訪明神が龍(蛇)の姿で現れたが、体があまりにも大きすぎて集いの邪魔になった。それ以来、明神は出雲に行かなくなった<ref>金井典美『諏訪信仰史』名著出版、1982年、7頁。</ref><ref>{{cite web|url=http://minwa.fujipan.co.jp/area/nagano_012/|title=信濃の国の神無月|website=フジパン|accessdate=2019-01-02}}</ref>。龍となった明神の尾は[[諏訪湖]]の高い木(尾掛松)に掛かっていたといい、そこから{{読み仮名|大和|おわ、[[諏訪市]]}}と高木([[下諏訪町]])の地名が生まれたという<ref>{{cite web|url=http://suwako-kankouguide.com/?p=72|title=尾掛松|website=諏訪湖エリアまちなか観光案内人|accessdate=2019-01-02}}</ref><ref>{{cite web|url=https://suwacitymuseum.jp/nandemo/koumoku/0500/050203.htm|title=御掛松|website=なんでも諏訪百科|publisher=諏訪市博物館|accessdate=2019-01-02}}</ref>。
 
諏訪神社の龍蛇信仰の弘布に大きな役割を果たしたのは、『[[神道集]]』に収められた「諏訪縁起」('''[[甲賀三郎 (伝説)|甲賀三郎伝説]]''')といわれるが<ref>伊藤富雄「諏訪神社の龍蛇信仰」『古諏訪の祭祀と氏族』 古部族研究会編、人間社、2017年、201-211頁。</ref>、[[持統天皇]]の時代から既に諏訪神社は「蛇を象徴動物とする水神」として中央政府に認識されていた形跡も濃い<ref>金井典美『諏訪信仰史』名著出版、1982年、4-5頁。</ref>。
 
中世まで行われた諏訪上社の[[冬祭り]]では、{{読み仮名|'''御室'''|みむろ}}と呼ばれる[[竪穴住居]]らしき土室が作られ、その中に[[藁]]、[[茅]]、または[[ハンノキ]]の枝で作られた数体の蛇形が安置され、翌春まで大祝がそこに参籠し、[[諏訪大社#神職|神長官]]とともに祭事を行った<ref>宮坂光昭『諏訪大社の御柱と年中行事』郷土出版社、1992年、141-143頁。</ref>。一説によると、「'''そそう神'''」と呼ばれるこの蛇形は「祖宗神」、すなわち神氏の祖霊としての諏訪明神をあらわす。
 
上社裏山にある'''[[フネ古墳]]'''(5世紀前半)<ref>{{cite web|url=http://www.82bunka.or.jp/bunkazai/detail.php?no=3480&seq=|title=フネ古墳(神宮寺)|website=車山高原レア・メモリー|accessdate=2018-07-27}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.82bunka.or.jp/bunkazai/detail.php?no=3480&seq=|title=フネ古墳出土品|website=公益財団法人 八十二文化財団|accessdate=2018-07-27}}</ref>に発見された[[蛇行剣]]も諏訪の蛇信仰と関係があると思われる<ref>大庭祐輔『[https://books.google.co.jp/books?id=zuiAUVX8IwMC&pg=PA62 竜神信仰: 諏訪神のルーツをさぐる]』論創社、2006年、62-63頁。</ref><ref>金井典美『諏訪信仰史』名著出版、1982年、74-94頁。</ref>。
 
===明神の武勲===
[[ファイル:Kiyomizudera engi emaki - Scroll1 Pic11 (cropped).jpg|360px|サムネイル|<center>坂上田村麻呂の蝦夷征伐(『清水寺縁起絵巻』より)</center>]]
'''[[梁塵秘抄]]'''』([[平安時代|平安]]末期成立)に「関より東の軍神、鹿島、香取、諏訪の宮」とあるように、中世以降になると諏訪社の社家の武士化とともに諏訪明神は[[軍神]]として信仰されるようになり、その武功を語る説話が広まった。
[[ファイル:Japanese crest Suwa Kajinoha(White background).svg|100px|サムネイル|左|<center>諏訪梶の葉<br/><small>([[諏訪氏]]の家紋)</small></center>]]
『[[源平盛衰記]]』『諏方大明神画詞』等によると、天照大神に遣わされた諏訪明神と[[住吉三神|住吉明神]]は[[神功皇后]]の'''[[三韓征伐]]'''に協力した<ref>太田亮『諏訪神社誌 第1巻』、官幣大社諏訪神社附属諏訪明神講社、1926年、160-164頁。</ref>。諏訪明神が[[坂上田村麻呂]]による'''[[蝦夷征討]]'''([[悪路王|安倍高丸]]追討)に参加したという伝承も、『画詞』のほか『神道集』や『信重解状』等に見られ、諏訪社の御射山祭または[[流鏑馬]]の由来として語られている<ref>福田晃、二本松康宏、徳田和夫編『諏訪信仰の中世―神話・伝承・歴史』三弥井書店、2015年、124-128頁。</ref><ref>『神道集』貴志正造編訳、平凡社〈東洋文庫 94〉、1978年、58-67頁。</ref><ref>太田亮『諏訪神社誌 第1巻』、官幣大社諏訪神社附属諏訪明神講社、1926年、164-166頁。</ref><ref>寺田鎮子、鷲尾徹太 『諏訪明神―カミ信仰の原像』 岩田書店、2010年、84-85頁。</ref>。
 
更に、[[治承・寿永の乱|源平合戦]]の際に大祝がどちらに味方するか考えていたところ、諏訪明神が夢で手にしていた[[梶]]の葉の[[軍配]]を白旗([[源氏]])のある方向へと振り下ろしたため、諏訪の武士集団が[[源頼朝]]に加勢したという伝承もあり、諏訪上社・下社の大祝家が用いる「'''[[梶の葉]]'''」の[[家紋]]の起源譚となっている。この内乱に功を立てた諏訪武士団は頼朝から取り立てられるようになり、諏訪明神も[[鎌倉幕府]]や武家衆から篤く崇敬された<ref>寺田鎮子、鷲尾徹太 『諏訪明神―カミ信仰の原像』 岩田書店、2010年、106-108頁。</ref>。
 
[[元寇]]の際には[[神風]]を起こしたとする伝承、または鎌倉後期に起こった[[安藤氏の乱]]の際には龍に乗って反乱を鎮定した伝承もある<ref>伊藤富雄「諏訪神社の龍蛇信仰」『古諏訪の祭祀と氏族』 古部族研究会編、人間社、2017年、192-198頁。</ref>。
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「(タケ)ミナカタ(トミ)」という名称の意味や由来については様々な説が挙げられている。
 
* 諏訪湖畔を指す「'''水方'''(みなかた)」(「'''水県'''」「'''水潟'''」とも)<ref name="古事記"/><ref>寺田鎮子、鷲尾徹太『諏訪明神―カミ信仰の原像』岩田書院、2010年、20頁。</ref><ref>諏訪市史編纂委員会 編「第二節 諏訪神社上社・下社」『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、686頁。</ref><ref name="miyasaka3031">宮坂光昭「強大なる神の国―諏訪信仰の特質」『御柱祭と諏訪大社』筑摩書房、1987年、30-31頁。</ref><ref>村岡月歩『諏訪の祭神』雄山閣出版、1969年、14-16頁。</ref>
*「'''[[南|南方]]'''(みなかた)」の意<ref>宮地直一『諏訪史 第2巻 前編』信濃教育会諏訪部会、1931年、10頁。</ref>
* [[たたら製鉄|製鉄炉]]の4本の柱の中の南方の柱、<ref>[[真弓常忠]]『日本古代祭祀と鉄』学生社、1981年、110頁。</ref>あるいは製鉄に重要な[[南風]]に由来する名前<ref>吉田敦彦、古川のり子『日本の神話伝説』青土社、1996年、183頁。</ref>
*「''''''(あがた)」の転化<ref>宮地直一『諏訪史 第2巻 前編』信濃教育会諏訪部会、1931年、12頁。</ref><ref>工藤浩「[https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=5217&item_no=1&page_id=13&block_id=21 タケミナカタ神の諏訪鎮座を巡って]」『国文学研究』143、早稲田大学国文学会、2004年、8-9頁。</ref>
*'''[[宗像三女神|宗像]]'''(むなかた)の転化<ref>[[松岡静雄]]『[https://books.google.co.jp/books?id=QLb0QBVHZW8C 民族學より見たる東歌と防人歌]』大岡山書店、1928年、197–199頁。</ref>{{Sfn|建御名方神(日本大百科全書)}}<ref>西沢正史・緒方惟章 『現代語で読む歴史文学 古事記』 勉誠出版</ref>{{efn|ただし上代語の甲類乙類の問題上宗像からの転化はあり得ないとする説もある。}}
*[[阿曇氏|安曇族]]にゆかりのある[[阿波国]]'''[[名方郡]]'''に因んだ名称<ref>太田亮『[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983470 諏訪神社誌 第1巻]』、官幣大社諏訪神社附属諏訪明神講社、1926年、8, 13頁。</ref><ref>大和岩雄 「建御名方命と多氏」『信濃古代史考』 名著出版、1990年、214-216頁。</ref>
 
====「南宮法性大明神」====
タケミナカタ(諏訪明神)の尊称の中で「'''南宮大明神'''」と「'''法性大明神'''」、またはこの二つを組み合わせた「'''南宮法性大明神'''」や「'''法性南宮大明神'''」というのがある<ref name="yusho162-163">宮坂宥勝「神と仏の融合ー密教思想からの解釈」『御柱祭と諏訪大社』筑摩書房、1987年、162-163頁。</ref><ref>三橋健『[https://books.google.co.jp/books?id=486cBj1YNnYC&pg=PT101 神社の由来がわかる小事典]』PHP研究所、2007年、101頁。</ref>。
 
『画詞』をはじめ中世文書には「正一位法性南宮大明神」「南宮法性大明神」「諏訪法性上下大明神」等が見られる<ref>宮地直一『諏訪史 第2巻 後編』信濃教育会諏訪部会、1937年、86頁。</ref>。[[後奈良天皇]]は[[天文 (元号)|天文]]22年([[1553年]])に「諏方正一位南宮法性大明神」の[[宸翰|宸筆]]を諏訪に下したという。[[武田信玄]]の軍旗と伝えるものには「諏訪南宮法性上下大明神」と書かれており、諏訪大社に伝わるその[[兜]]も「'''諏訪法性兜'''」と呼ばれている。このように、これらの神号は中世以来一貫して使用されて、いわば諏訪明神の正式呼称であった<ref name="yusho162-163"/>。
 
「[[法性]]」とは、[[法身|法性身]](法身)のことで、無色無形の[[真如]]を[[虚空]]に喩えたものを指す<ref>宮坂宥勝「神と仏の融合ー密教思想からの解釈」『御柱祭と諏訪大社』筑摩書房、1987年、162頁。</ref>。これは「我に於いて体なし」という諏訪明神の神勅と符合する<ref>寺田鎮子、鷲尾徹太『諏訪明神―カミ信仰の原像』岩田書院、2010年、116頁。</ref>。また、密教的には法性身は有色有形の法身[[大日如来]]を指すことから、「法性神」は大日如来と同様に唯一にして根源的な存在、すなわち最高神を意味するとも解釈できる<ref>宮坂宥勝「神と仏の融合ー密教思想からの解釈」『御柱祭と諏訪大社』筑摩書房、1987年、164頁。</ref>。
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*[[松前健]]は、力竸べ説話が後世の「河童のわび証文」型の説話(河童(水の精霊)と人が争って河童が腕を引き抜かれ誓いをする説話)と一致することから、元々はタケミナカタが諏訪湖の水神を打ち負かす説話であったのが中央神話に換骨奪胎されたとする説を提唱した{{Sfn|建御名方神(国史)}}<ref name="松前健2007">[[松前健]] 『日本神話の謎がよく分かる本』 大和書房、2007年、pp. 136-137。</ref>。
*[[宮坂光昭]](1987年)は『古事記』に書かれている説話を諏訪に伝わる入諏伝承の脚色とみて、『古事記』の編纂に関わった、[[科野国造]]家([[金刺氏]])と同族関係に当たる[[多氏]]の[[太安万侶]]がこの地方神話をもとに「タケミナカタ」という神を創作して、諏訪の独特の祭神として記載したという説を唱えた<ref>宮坂光昭「強大なる神の国―諏訪信仰の特質」『御柱祭と諏訪大社』『御柱祭と諏訪大社』筑摩書房、1987年、17-19頁。</ref>。この説においては、「(タケ)ミナカタ」(=「水像」あるいは「水潟」)という神名は諏訪湖に見られる[[御神渡り]]という神秘的な自然現象に因んだ名前で、大祝代々の総称とされている<ref>宮坂光昭「強大なる神の国―諏訪信仰の特質」『御柱祭と諏訪大社』筑摩書房、1987年、30-33頁。</ref>。
*[[大和岩雄]](1990年)の説によると、[[信濃国造]]家が諏訪の'''[[ミシャグジ|ミシャグジ信仰]]'''をヤマト王権の神統譜に組み入れた結果、「タケミナカタ」という神名が生まれた。大和は、太安万侶が同族の科野国造家の意思を受けて、タケミナカタを大国主の子として国譲り神話に入れたと推測して、神話上のタケミナカタの敗走はミシャグジを祀る[[守矢氏]]が科野国造の勢力に敗れた事と重なっているとも指摘した<ref>大和岩雄 「建御名方命と多氏」『信濃古代史考』 名著出版、1990年、212-213頁。</ref>。
*工藤浩(2004年)はタケミナカタを[[物部氏]]が奉斎したフツヌシと比定して、国譲り神話の原形を物部氏による出雲[[県主|県]](あがた)の設置に基づくとした。『古事記』におけるタケミナカタ像は、物部氏没落後に中央政界に台頭した中臣氏によるもので、国譲り神話から物部氏の影を払拭しようとして『古事記』の編纂者が天津神に派遣される使者をフツヌシからタケミカヅチに変えて、「タケミナカタ」(神名は「御県の神」というフツヌシの別称から)という神を創作して、これをタケミカヅチのやられ役にしたという<ref>工藤浩「タケミナカタ神の諏訪鎮座を巡って」『国文学研究』143、早稲田大学国文学会、2004年、8-10頁。</ref>。
*寺田鎮子・鷲尾徹太(2010年)は、タケミナカタをヤマト王権による日本古来の信仰の整理統一の文脈で作り出され、朝廷への服従のしるしとして諏訪に押し付けられた人格神としている。諏訪の人々は表面上この神格を受け入れたが、古来のミシャグジ信仰を捨てず、ヤマト王権の「カミの整理統合」に抗って独自の信仰を裏で発展させ続けたという<ref>寺田鎮子、鷲尾徹太 『諏訪明神―カミ信仰の原像』 岩田書店、2010年、80-83頁。</ref>。
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タケミカヅチとタケミナカタの力競べは古代の[[相撲|神事相撲]]を象徴したものとする説が知られている<ref>戸部民夫 『日本神話 神々の壮麗なるドラマ』 新紀元社、129頁。</ref>。このことから、諏訪大社は相撲界から篤い信仰を集めている。毎年9月15日、諏訪大社上社本宮では青年力士11名が相撲踊りを奉納する行事がある<ref>宮坂光昭 『諏訪大社の御柱と年中行事』 郷土出版社、1992年、125-131頁。</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.82bunka.or.jp/bunkazai/legend/detail/09/post-92.php|title=諏訪大社上社十五夜祭奉納相撲|website=公益財団法人 八十二財団|accessdate=2019-01-02}}</ref>。
 
タケミカヅチがタケミナカタの手をつかんだ時に、「若葦を取るが如く、{{読み仮名|搤|つか}}み{{読み仮名|批|ひし}}ぎて投げ離ちたまへば、(タケミナカタが)即ち逃げ{{読み仮名||い}}にき」とあるが、タケミカヅチがタケミナカタの手(腕)をちぎり取って、それを投げ捨てたという意味と、タケミカヅチがタケミナカタの手(腕)をつかんで、タケミナカタを投げ飛ばしたという意味という2通りの解釈ができる<ref>多ケ谷有子「[https://kgulibrary.kanto-gakuin.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=v3search_view_main_init&block_id=323&direct_target=catdbl&direct_key=%254e%2549%2533%2530%2530%2530%2530%2531%2533%2534&lang=english#catdbl-NI30000134 「古事記」「風土記」における「ベーオウルフ」の類話 : グレンデルと「古事記」国譲り譚のタケミナカタ説話、および「出雲国風土記」安木郷の猪麻呂説話]」(『関東学院大学文学部紀要』123、2011年、120-125頁。</ref>。
 
タケミカヅチとタケミナカタの勝負は[[当麻蹴速]]と[[野見宿禰]]の一戦と比べて荒々しさがなく、むしろ比較的に紳士的で実施されていることから、『古事記』が書かれた時代には既に相撲ないし力比べのルールが確立しており、それを反映しているという説もある<ref>長谷川明『相撲の誕生 定本』青弓社、2015年、18-19頁。</ref>。
 
===入諏神話について===
[[ファイル:Suwa taisha Kamisha Maemiya , 諏訪大社 上社 前宮 - panoramio (12).jpg|サムネイル|300px|<center>諏訪大社 上社前宮</center>]]
諏訪に伝わる入諏神話は、諏訪上社の神長官を務めてきた[[守矢氏]]が外来侵入勢力(後の[[諏訪氏|神氏]])に降伏して統治権を委譲した出来事に基づいていると推定さ考えらてい<ref name="suwashishi686">諏訪市史編纂委員会 編「第二節 諏訪神社上社・下社」『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、686-691頁。</ref>
 
諏訪にやって来た神氏を[[稲作]]技術をもたらした[[出雲族|出雲系民族]]([[弥生人]])とする説や<ref name="nhkonbashira">{{Cite episode|title=NHKスペシャル 古代史ミステリー “御柱”~最後の“縄文王国”の謎~|serieslink=NHKスペシャル|network=NHK総合|airdate=2016|url=https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009050501_00000}}</ref><ref> 「第二節 地主神洩矢ノ神」『茅野市史 上巻(原始・古代)第二編』 茅野市、1986年、932-933頁。</ref>、馬飼集団の'''[[金刺氏]]'''([[科野国造]]家、後に諏訪下社の社家)の分家<ref>諏訪市史編纂委員会 編『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、615-623、686-696頁。</ref><ref name="owa213"> 大和岩雄 『信濃古代史考』 名著出版、1990年、213頁。</ref>、または'''[[大神氏|三輪氏]]'''の一派<ref>寺田鎮子、鷲尾徹太『諏訪明神―カミ信仰の原像』岩田書院、2010年、136-138頁。</ref><ref name="miyasaka87">宮坂光昭「古墳の変遷からみた古氏族の動向」『古諏訪の祭祀と氏族』『古諏訪の祭祀と氏族』 古部族研究会編、人間社〈日本原初考 2〉、2017年、87頁。</ref><ref>宝賀寿男「長髄彦と磯城県主の系譜」『三輪氏 大物主神の祭祀者』青垣出版、2015年、115頁。</ref>とする説がある([[タケミナカタ#神氏と大祝について|詳細は後述]])。前者の場合は入諏神話を[[縄文時代]]と[[弥生時代]]の変わり目、後者の場合は[[弥生時代]]または[[古墳時代]]に起こった出来事に基づいていると解される。
守矢氏はかつて[[諏訪地域|諏訪]]・[[上伊那地域|上伊那]]を中心とする[[ミシャグジ]]祭政を統括した氏族である<ref name="suwashishi686">諏訪市史編纂委員会 編「第二節 諏訪神社上社・下社」『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、686-691頁。</ref>。守矢氏がミシャグジ奉斎を「専らの役」とし、諏訪の各郷村のミシャグジ信仰はこの氏族の手に握られていたと思われる<ref>北村皆雄「「ミシャグジ祭政体」孝」『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古代部族研究会編、人間社、2017年、98頁。</ref>。しかし、守矢氏が諏訪に進入してきた勢力(後の[[諏訪氏|神氏]])との覇権争いに敗れた後、祭政権の交代が行われた<ref name="suwashishi686"/>。
 
[[古墳時代]]中期(5世紀前半)に守屋山の麓(上社本宮の近く)にはフネ古墳が築造された。[[千曲川]]中流域や[[伊那谷]]の古墳群([[科野国造|国造]]勢力のものと思われる)とは異なり竪穴式墳墓や土器を特徴としているため、諏訪と[[上伊那地方]]を支配する強大な豪族によって作られたものと考えられている。また、この古墳から出土した[[蛇行剣]]と鹿角製品は諏訪上社の龍蛇信仰や狩猟儀礼と関係があると考えられている<ref>大庭祐輔『竜神信仰: 諏訪神のルーツをさぐる』論創社、2006年、62-63頁。</ref><ref>金井典美『諏訪信仰史』名著出版、1982年、74-94頁。</ref><ref>寺田鎮子、鷲尾徹太『諏訪明神―カミ信仰の原像』岩田書院、2010年、95頁。</ref>。フネ古墳より少し後に諏訪湖周辺に同じタイプの古墳が築造されるが、6世紀後半に[[飯伊地域|下伊那]]の[[横穴式石室|横穴式古墳]]文化([[馬具]]の副葬品が特徴)が諏訪にも見られるようになり、在地型の墳墓に取って代わる。このことから、[[伊那谷]]から諏訪への馬飼集団の移動があったと推測される<ref>寺田鎮子、鷲尾徹太『諏訪明神―カミ信仰の原像』岩田書院、2010年、66-67, 135頁。</ref>。
諏訪にやって来た神氏を[[稲作]]技術をもたらした[[出雲族|出雲系民族]]([[弥生人]])とする説や<ref name="nhkonbashira">{{Cite episode|title=NHKスペシャル 古代史ミステリー “御柱”~最後の“縄文王国”の謎~|serieslink=NHKスペシャル|network=NHK総合|airdate=2016|url=https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009050501_00000}}</ref><ref> 「第二節 地主神洩矢ノ神」『茅野市史 上巻(原始・古代)第二編』 茅野市、1986年、932-933頁。</ref>、馬飼集団の[[金刺氏]]([[科野国造]]家、後に諏訪下社の社家)の分家<ref>諏訪市史編纂委員会 編『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、615-623、686-696頁。</ref><ref name="owa213"> 大和岩雄 『信濃古代史考』 名著出版、1990年、213頁。</ref>、または[[大神氏|三輪氏]]の一派<ref>寺田鎮子、鷲尾徹太『諏訪明神―カミ信仰の原像』岩田書院、2010年、136-138頁。</ref><ref name="miyasaka87">宮坂光昭「古墳の変遷からみた古氏族の動向」『古諏訪の祭祀と氏族』『古諏訪の祭祀と氏族』 古部族研究会編、人間社〈日本原初考 2〉、2017年、87頁。</ref><ref>宝賀寿男「長髄彦と磯城県主の系譜」『三輪氏 大物主神の祭祀者』青垣出版、2015年、115頁。</ref>とする説がある([[タケミナカタ#神氏と大祝について|詳細は後述]])。前者の場合は入諏神話を[[縄文時代]]と[[弥生時代]]の変わり目、後者の場合は[[弥生時代]]または[[古墳時代]]に起こった出来事に基づいていると解される。
 
6世紀(古墳時代後期)に入ると[[飯伊地域|下伊那地方]]には多くの[[前方後円墳]]が建てられ、これらには馬関連の副葬品が多い。6世紀後半に諏訪地方に出現して在地型の[[弥生時代の墓制#方形周溝墓(方形低墳丘墓)|周溝墓]](いわゆる[[フネ古墳]]型古墳)に取って代わる古墳からも馬具の出土が多いため、[[伊那谷]]から諏訪への馬飼集団の移動があったと推測される。この移動した部族を金刺氏とする説はあるが<ref>諏訪市史編纂委員会 編『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、692、694頁。</ref>、伊那谷の古墳は一つの様式で占められず、いろんなタイプがあるという指摘もある。つまり、伊那谷には一つの氏族ではなく、文化の異なるいくつかの集団([[畿内]]の[[豪族]]とそれに結び付いた在地勢力)が存在したと考えられる。この中に、神氏となる氏族がいたのかもしれないのである。一説では、伊那谷から進出した神氏(=ミワ氏)は『[[和名抄]]』では「美和郷」{{efn|現在の[[箕輪町|箕輪(みのわ)町]]の地名はその名残か。}}といわれていた[[上伊那地域]]を一旦本拠とし、そこから天竜川を遡って現在の[[岡谷市]]から諏訪盆地に入った<ref>寺田鎮子、鷲尾徹太『諏訪明神―カミ信仰の原像』岩田書院、2010年、134-136頁。</ref>。一方で天竜川側から進入したとする主張は同意見でありながらも、神氏の諏訪入りは[[神武東征]]によって[[大神氏]]系の[[出早雄命|伊豆速男命]]が大和から敗走した[[弥生時代]]の頃とする説もある<ref>古樹紀之房間 {{Cite web |author=[[宝賀寿男]]|date=2008|url=http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/nagasune/nagasune1.htm|title=長髄彦の後裔とその奉斎神社 2008年|website=古樹紀之房間|accessdate=2019-06-08}}</ref>。
 
[[ファイル:Jinchoukan-Moriya-shiryoukan Jinchoukan-ura-kofun.JPG|サムネイル|180px|left|<center>神長官裏古墳([[茅野市]])<br/><small>[[物部守屋]]の次男・武麿の墓と伝わる7世紀中頃の古墳</center></small>]]
一方、神氏に制圧された守矢氏は土着の民族、あるいは物部氏と関わりのある氏族だったと思われる。
入諏神話をもとに守矢氏を土着の勢力集団と考えるのが一般的だが、外部から流入してきたという説もある。[[物部守屋]]の次男が[[丁未の乱]](587年)の後に[[守屋山]]に忍んで、のちに守矢氏に養子入りしたという伝承がある。また、守屋山の南麓([[伊那市]][[高遠町]]藤澤区片倉)には物部守屋を祀る守屋神社があり、その膝元には物部守屋の子孫と名乗る家が多く存在する<ref name="hara148154">原正直 「守屋山の習俗と伝承」『諏訪学』 山本ひろ子、2018年、148-154頁。</ref>。このことから、守矢氏物部氏の支流<ref>原田実「守矢家文書」『偽書が描いた日本の超古代史』河出書房新社、2018年、76-82頁。</ref>、あるいは物部氏と親近関係にあった在地勢力とすしてみる説がある<ref name="hara148154">原正直 「守屋山の習俗と伝承」『諏訪学』 山本ひろ子、2018年、148-154頁。</ref>。ただし、守矢氏は土着部族(話上、氏よりも前に諏訪から追われたという[[千鹿頭神]])の先住部族駆逐征服物部守屋の末裔と名乗る勢力とは無関係かつ対立的であり外来がらそ伝承を半ば意図的に利用した氏族だったいう説する見方もある<ref>寺田鎮子、鷲尾徹太『諏訪明神―カミ信仰の原像』岩田書院、2010年、129-134頁。</ref>。
 
====造作説====
[[物部守屋]]の次男が[[丁未の乱]](587年)の後に[[守屋山]]に忍んで、のちに守矢氏に養子入りしたという伝承がある。また、守屋山の南麓([[伊那市]][[高遠町]]藤澤区片倉)には物部守屋を祀る守屋神社があり、その子孫と名乗る家が多く存在する<ref name="hara148154">原正直 「守屋山の習俗と伝承」『諏訪学』 山本ひろ子、2018年、148-154頁。</ref>。このことから、守矢氏は物部氏の支流<ref>原田実「守矢家文書」『偽書が描いた日本の超古代史』河出書房新社、2018年、76-82頁。</ref>、あるいは物部氏と親近関係にあった在地勢力とする説がある<ref name="hara148154"/>。ただし、守矢氏は土着部族(神話上、諏訪から追われたという[[千鹿頭神]])を駆逐し、守屋の末裔と名乗る勢力とは対立的な外来の氏族だったという説もある<ref>寺田鎮子、鷲尾徹太『諏訪明神―カミ信仰の原像』岩田書院、2010年、129-134頁。</ref>。
入諏神話は史実を反映しているという説は今やほぼ定説となっているが、中世に流布していた他の説話に影響された、あるいは中世説話をもとにして創作されたのではないかという意見も近年になって現れている。
 
[[井原今朝男]](2008年)は、中世の頃には『古事記』や六国史は安易に講読できない史料であったことから、中世前期の文献に見られる「諏訪縁起」は『古事記』や『日本書紀』の影響なしに新たに編纂されたものだという<ref name="ihara162"/>。
[[ファイル:Yasaka-no-Suzu - 八栄の鈴.jpg|サムネイル|180px|左|<center>八栄の鈴</center>]]
====『信重解状』の天降り神話====
中世前期の文献に見られる諏訪神話は、『古事記』や『日本書紀』の要素がまったく見られず、記紀神話の影響なしに新たに編纂されたものである。中世の頃には『古事記』や六国史は安易に講読できない史料だったからだと思われる<ref name="ihara162"/>。
 
青木隆幸(2012年)は、入諏神話は諏訪の神に「軍神」という新たな性格が追加された際(平安末期以降)に作られたという説を挙げており、この説話を考古学的知見と結びつけようとする見解を批判している<ref>青木隆幸「中世的神話世界の形成―諏訪上社大祝と『諏訪大明神絵詞』をめぐって―」『長野県立歴史館研究紀要』18、2012年、26-31頁。</ref>。
『信重解状』においては、諏訪明神が神宝を携えて天から守屋山に降ったとされている。これと[[ニニギ]]([[天孫降臨]])や[[ニギハヤヒ]]の天降り神話との類似点が指摘されている<ref>伊藤富雄『伊藤富雄著作集 第6巻 上代及び中世の山浦地方その他』伊藤麟太朗 編、甲陽書房、1963年、444-445頁。</ref>。[[真澄の鏡]]([[銅鏡]])・[[八栄の鈴]]・[[鞍|唐鞍]]・[[轡]]を持参して降臨する諏訪明神が、諏訪に横穴石室古墳文化と飼馬技術を持ってきた人々の姿と重なるという見解もある<ref>諏訪市史編纂委員会 編『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、683頁。</ref><ref>宮坂光昭「第二章 強大なる神の国」『御柱祭と諏訪大社』 筑摩書房、1987年、33頁。</ref>(ただし、現存する上社の神宝のほとんどが[[奈良時代|奈良]]・[[平安時代]]のものである)。
 
また、『信重解状』における入諏神話に洩矢神が「守屋大臣」として出てくることから。また、『信重解状神氏系図(前田家本)序文おけも諏訪明神と初代大祝が「守屋」と争ったのは[[用明天皇]]の時代であったとあが、これは丁未の乱が勃発した時代と符合する。このことから、入諏神話は中世に広く流布していた[[聖徳太子]]にまつわる伝承の影響を受けていることが分かる<ref name="ihara162">井原今朝男「鎌倉期の諏訪神社関係史料にみる神道と仏道:中世御記文の時代的特質について」、『国立歴史民俗博物館研究報告』第139巻、国立歴史民俗博物館、2008年、161-162頁。</ref>。『神氏系図(前田家本)』序文には[[用明天皇]]の御代に諏訪明神と初代大祝が「守屋」と争ったとあるが、これ丁未の乱が勃発聖徳太子伝説をもとにて造作され時代と符合する<ref>原田実「守矢家文書」『偽書が描いた日本の超古代史』河出書房新社、2018年、81頁。</ref>という説が挙げられている
 
[[ファイル:Yasaka-no-Suzu - 八栄の鈴.jpg|サムネイル|180px|左|<center>八栄の鈴</center>]]
====『信重解状』の天降り神話について====
『信重解状』においては、諏訪明神が神宝を携えて天から守屋山に降ったとされている。これと[[ニニギ]]([[天孫降臨]])や[[ニギハヤヒ]]の天降り神話との類似点が指摘されている<ref>伊藤富雄『伊藤富雄著作集 第6巻 上代及び中世の山浦地方その他』伊藤麟太朗 編、甲陽書房、1963年、444-445頁。</ref>。'''[[真澄の鏡]]'''([[銅鏡]])・'''[[八栄の鈴]]'''・[[鞍|唐鞍]]・[[轡]]を持参して降臨する諏訪明神が、諏訪に横穴石室古墳文化と飼馬技術を持ってきた人々の姿と重なるという見解もある<ref>諏訪市史編纂委員会 編『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、683頁。</ref><ref>宮坂光昭「第二章 強大なる神の国」『御柱祭と諏訪大社』 筑摩書房、1987年、33頁。</ref>(ただし、現存する上社の神宝のほとんどが[[奈良時代|奈良]]・[[平安時代]]のものである)。
 
『画詞』よりも100年以上前に成立していたことから、『信重解状』に書かれている内容は鎌倉中期以前の諏訪上社の在り方や伝承を知る手掛かりになる重要な史料と評価された<ref> 諏訪市史編纂委員会 編『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、813-814頁。</ref>。しかし、提出先が「御奉行所」になっていること(宝治年間以前に「御奉行所」を宛先とする訴状はない)、箇条書きで祭祀の由来を詳しく説明していること(これは鎌倉時代の訴状にしては不自然)、またはほぼ同時期に書かれた『[[広疑瑞決集]]』([[建長]]8年・1256年)には見られない、つまり時代にしてはかなり進んでいる殺生功徳論([[殺生]]は[[成仏]]の[[方便]]という理論、[[タケミナカタ#狩猟・農耕の神として|詳細は後述]])が出てくることなどという不可解な点が多いため、『信重解状』を後世の偽作とする見解もある<ref>中澤克昭「『広疑瑞決集』と殺生功徳論」『諏訪信仰の歴史と伝承』二本松康宏編、三弥井書店、2019年、50-51頁。</ref>。
また、洩矢神が「守屋大臣」として出てくることから、『信重解状』における入諏神話は中世に広く流布していた[[聖徳太子]]の伝承の影響を受けていることが分かる<ref name="ihara162">井原今朝男「鎌倉期の諏訪神社関係史料にみる神道と仏道:中世御記文の時代的特質について」、『国立歴史民俗博物館研究報告』第139巻、国立歴史民俗博物館、2008年、161-162頁。</ref>。『神氏系図(前田家本)』序文には、[[用明天皇]]の御代に諏訪明神と初代大祝が「守屋」と争ったとあるが、これは丁未の乱が勃発した時代と符合する<ref>原田実「守矢家文書」『偽書が描いた日本の超古代史』河出書房新社、2018年、81頁。</ref>。
 
====藤と鉄====
273 ⟶ 282行目:
前述の通り、『画詞』では「藤鎰・鉄鎰」が「藤の枝・鉄輪」に変わっている。これは、『画詞』が書かれた時代には「藤鎰」と「鉄鎰」がどのようなもので、それによってどのような葛藤があったのか分からなくなったためと考えられる<ref>福田晃、二本松康宏、徳田和夫編『諏訪信仰の中世―神話・伝承・歴史』三弥井書店、2015年、122頁。</ref>。「輪」を「鑰」の誤字(写し間違い)とする説もある<ref name="hosoda1718"/>。
 
神話上の「鉄鎰(鉄鑰・鉄輪)」は、上社に伝わる'''鉄鐸'''(さなぎの鈴)を表し、これらが守矢氏が製鉄に関わった氏族で、やはり鍛冶技術に長じた物部氏とは何らかの関係があったことを示唆するという見解もある<ref>原正直「守屋山の習俗と伝承」『諏訪学』山本ひろ子編、国書刊行会、2018年、156-157頁。</ref>。守屋山中にも鍛冶場の跡と思われる「{{読み仮名|鋳物師|いもじ}}ヶ釜」の地名が残っている<ref>原正直 「守屋山の習俗と伝承」『諏訪学』 山本ひろ子、2018年、157-158頁。</ref>。この諏訪と鉄の関係を暗示させる事例から、[[真弓常忠]]はタケミナカタを製鉄の神とし、明神と洩矢神の争いをスズ([[褐鉄鉱]])から[[砂鉄]]への製鉄技法の進歩、すなわち新旧文化の対決を意味すると解釈していた<ref>真弓常忠「鉄輪と藤枝―「諏訪大明神絵詞」の意味するもの―」『皇学館大学紀要』18、1980年、85-94頁。</ref>。
 
一方、諏訪明神が手にしていた「藤」は明神自身の表象ともみられる。[[山本ひろ子]](2016年)は、凄まじい繁茂力のある藤とそれへの強い畏怖こそが入諏神話の発祥を解く鍵とし、「〔[[天竜川]]の〕両岸からせめぎあう藤の「抗争」(絡み合い)と、土着神(守矢一族)と今来の神(神氏一族)の「抗争」。どちらか一方なくしては、こうした所伝は生まれ得なかったし、命脈を保てなかったろう」と主張している<ref>山本ひろ子「中世諏訪社の一考察 : 失われた芸能と伝承を求めて」『東西南北 : 和光大学総合文化研究所年報 2016』、2016年、215-211頁。</ref>。
 
===神氏と大祝について===
296 ⟶ 305行目:
* 洲羽国造後裔の倉見君は用明朝に敵人に殺害されて洲羽嫡流の男系が絶えたため、その娘が科野国造麻背君に嫁して生んだ外孫の乙穎(神子、熊子)が幼少にして洲羽氏嫡宗を継いだと考えられること
 
を指摘して、金刺氏の分家ではなく混淆した家系からの養孫とする説を唱えた<ref>{{Cite web |author=[[宝賀寿男]]|date=2008|url=http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/suwasya1.htm|title=諏訪社の奉斎氏族』2010年|website=古樹紀之房間|accessdate=2019-06-08}}</ref>。
 
上記の他にも肯定論、否定論が出ており、系図の真偽について未だ学界での定説を見ていない。
 
[[ファイル:Mt.miwa from Hashihaka-kofun.JPG|サムネイル|左|180px|<center>[[三輪山]]([[奈良県]][[桜井市]])</center>]]
金刺氏のほか、神氏は[[大神氏|三輪(大神氏]]出自とする説もある<ref name="miyasaka87"/>。[[塩尻市]]柴宮で三輪大神氏に関係する部族がいたと思われる[[三河国|三河]]・[[遠江国]]に見られる[[銅鐸#歴史|三遠式銅鐸]]の出土があり<ref>{{cite web |url=https://www.82bunka.or.jp/bunkazai/detail.php?no=1467&seq=|title=柴宮銅鐸|website=公益財団法人 八十二文化財団|access-date=2019-01-30}}</ref>、天竜川経由での人(三輪大神氏の同族集団か)の移動があったことを示唆する。「祝(ほうり)」という神官の呼称、「ミワ」という氏族名、または蛇信仰の存在等といった三輪大神氏や[[三輪山]]([[大物主神|大物主]])信仰との共通点も指摘されている<ref>寺田鎮子、鷲尾徹太『諏訪明神―カミ信仰の原像』岩田書院、2010年、134-138頁。</ref><ref>谷川健一『蛇: 不死と再生の民俗』冨山房インターナショナル、27-29頁。</ref>。実際には1865年([[元治]]2年)の『諏訪神社祈祷所再建趣意書』には当時の大祝の諏訪頼武が「諏方大祝大三輪[[朝臣|阿曽美]]頼武」と名乗っていた<ref>『日本の神々―神社と聖地〈9〉美濃・飛騨・信濃』 谷川健一、白水社、1987年、136頁。</ref><ref>寺田鎮子、鷲尾徹太『諏訪明神―カミ信仰の原像』岩田書院、2010年、227頁。</ref>。
 
『日本書紀』から[[持統天皇|持統]]朝(7世紀後半)には既に諏訪の神が朝廷から篤い崇敬を受けていたことがうかがえるのに対して、前記したように多くの記録が神氏の始祖の有員が9世紀初頭の人物としているという問題がある。本当の初代大祝を[[用明天皇|用明]]朝(6世紀末)の神子(乙頴)とする『大祝家本神氏系図』と『異本阿蘇氏系図』の記述を受け入れる説<ref>諏訪市史編纂委員会 編『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、711-713頁。</ref>のほか、上社の大祝となる童男は元々特定の一族ではなく[[ダライ・ラマ]]のように上社周辺の氏族から選ばれていたが、[[平城天皇]]の時代に上社が下社の金刺氏に倣って世襲制に替わったという大和岩雄の説がある<ref> 大和岩雄 「建御名方命と多氏」『信濃古代史考』 名著出版、1990年、220-221頁。</ref>。
 
今までの研究では、上社大祝を[[現人神]]とする信仰は古代からのもので、原始信仰の名残とするのが一般的であった。これに対して、津田勉(2002年)<ref>津田勉「諏訪「大祝」職の発生」『国学院雑誌』1139、國學院大學総合企画部広報課、2002年、478−485頁。</ref>と井原今朝男(2008年)は大祝を権威や権力から超越した現人神とする思想の成立は[[神祇官|神祇制度]]下では不可能と指摘し、むしろ[[鎌倉時代]]に出来上がったものとみるべきだと提唱している<ref>{{Cite journal |和書 |author = 井原今朝男 |title =鎌倉期の諏訪神社関係史料にみる神道と仏道:中世御記文の時代的特質について|date=2008|publisher =国立歴史民俗博物館 |journal =国立歴史民俗博物館研究報告|volume =139|url=https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1538&item_no=1&page_id=13&block_id=41|page=162}}</ref>。
 
青木隆幸(2012年)は、大祝に関わる伝承やその即位式を中世に発生したものとしている。なお、幼童を大祝に当てるというのは『画詞』成立以前には見られないため(『信重解状』にも初代大祝の年齢が書かれていない)、8歳にして諏訪明神に選ばれた有員を7歳に大祝となり、8歳に復位した諏訪頼継([[諏訪時継]]の子)をモデルにした『画詞』を編纂した諏訪円忠による創作と主張している。また、これと一致している乙頴を「諏訪大神大祝」とする『異本阿蘇氏系図』の記述は後世の付加と推測している<ref>青木隆幸「中世的神話世界の形成―諏訪上社大祝と『諏訪大明神絵詞』をめぐって―」『長野県立歴史館研究紀要』18、2012年、24-26, 31頁。</ref>。
 
==妻・子孫==
370 ⟶ 381行目:
下社の春宮と秋宮の境内にある若御子社、または秋宮付近にある若宮神社には13柱の御子神が祀られている。更に諏訪郡内に10社ある「十五社神社」にはタケミナカタ・ヤサカトメ・御子神13柱(合計15神)が鎮座されている<ref name="ishino82" />。また、須波若彦命を祀る習焼神社のように、単独で祀られる場合もある。さらに、御子神を祀る神社も諏訪群外にも数多く存在する<ref>石埜三千穂「諏訪御子神としてのミシャグジ―ミシャグジ研究史の盲点を問う」『スワニミズム 第3号』2017年、86頁。</ref>。
 
現在に伝わる御子神たちの名称をはっきりと記すのは『諏訪旧蹟誌』([[江戸時代|江戸]]末期成立)が最初であるが、[[嘉禎]]年間の奥書を持つ『根元記』と『祝詞段』には「小波木」「コハキ」(興萩命)、または「イスハイ」「イスハエ」(出早雄命)という神名が見られる。また、[[平安時代]]に編纂された『[[日本三代実録]]』には、安達神(宇達神とも。守達神か)、妻科(地)神、馬背神、[[会津比売神]](かいづひめのかみ)、[[草奈井比売神]](くさないひめのかみ)、[[八縣宿禰神|八県宿禰命神]](やつあがたすくねのかみ)、出早雄神、蓼科神、池生神、[[槻井泉神]]と、孫神とされる神も含め十柱の名が確認できる<ref>石埜三千穂「諏訪御子神としてのミシャグジ―ミシャグジ研究史の盲点を問う」『スワニミズム 第3号』2017年、87-88頁。</ref>。
 
一般に、諏訪御子神の多くは[[国学]]が流行した江戸後期に「再発見」されたもので、実はそう古くはないと考えられるが、「13柱の諏訪御子神十三柱」という概念の原型が中世には既に確認できる<ref>石埜三千穂「諏訪御子神としてのミシャグジ―ミシャグジ研究史の盲点を問う」『スワニミズム 第3号』2017年、88頁。</ref>。[[室町時代]]の神長官[[守矢満実]]によるとが書いた文書では、春の[[諏訪大社#年間祭事|御頭祭]]で大祝の代理となる6人の{{読み仮名|神使|おこう}}も、{{読み仮名|御左口神|ミシャグジ}}も、のほか「十三所(王子)」もすべて諏訪明神の[[王子神]]であとされている。
 
<blockquote>誠ニ当社御神の王子にて、外県両人は上野一宮御腹、内県大県四人は下宮ニやどらせ給、御誕生うたがひなし。御左口神も十三所と申も、当社の王子御一体、今こそ{{読み仮名|思合候|思ひ合はせ}}とて、{{読み仮名|弥不致祈念者|いよいよ祈念を致さざる者}}なし。</blockquote>
 
「十三所(王子)」とは、上社の摂末社群の祭神<ref>武井正弘「祭事を読む―諏訪上社物忌令之事―」『飯田市美術博物館 研究紀要』、9(0)、1999年、142-143頁。</ref>、あるいは後世でいう「13柱の御子神十三柱のことだと思われる<ref>石埜三千穂「諏訪御子神としてのミシャグジ―ミシャグジ研究史の盲点を問う」『スワニミズム 第3号』2017年、90-96頁。</ref>。『上社物忌令』「波陬六斎日」<ref> 武井正弘「祭事を読む―諏訪上社物忌令之事―」『飯田市美術博物館 研究紀要』、9(0)、1999年、135-136頁。</ref>にも「大明神・十三所王子・御左口神」が礼拝の対象として併記されている<ref>細田貴助『県宝守矢文書を読む―中世の史実と歴史が見える』ほおずき書籍、2003年、75-76頁。</ref>。また、『諏方大明神画詞』における坂上田村麻呂の安倍高丸征伐のくだりにも「十三所王子」が諏訪明神とともに登場している<ref>石埜三千穂「諏訪御子神としてのミシャグジ―ミシャグジ研究史の盲点を問う」『スワニミズム 第3号』2017年、89, 93-94頁。</ref>。
 
====ミシャグジ====
なお守矢満実の記述で見られるように諏訪上社の祭事に登場する[[ミシャグジ]]も中世の諏訪には諏訪明神の御子神(王子神)または[[眷属|眷属神]]として理解されていた。土地開発の功を立てたとされることから「13柱の御子神」を[[草分け]]をつかさどるミシャグジと同視される場合ある<ref name="yamada" />。[[明治時代]]の[[神社明細帳]]においては、諏訪地域内にあったおよそ40のミシャグジ社のほとんどがタケミナカタ(諏訪大神)の御子神を祀る神社として記録され、ミシャグジも「健御名方命御子」として出てくる<ref>石埜三千穂「諏訪御子神としてのミシャグジ―ミシャグジ研究史の盲点を問う」『スワニミズム 第3号』2017年、70頁。</ref>。また、『守矢神長古書』には「当社にて御社宮神というのは皆御子孫の事言う也」とある<ref>北村皆雄「「ミシャグジ祭政体」考」『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古代部族研究会編、人間社、2017年、105頁。</ref>。
 
== 霊廟 ==
407 ⟶ 419行目:
国史や『[[延喜式]]』[[延喜式神名帳|神名帳]]等で同社の神名は「建御名方富命神」・「南方刀美神」等と表記され、[[神階]]は順次昇叙のうえ[[貞観 (日本)|貞観]]9年([[867年]])に従一位勲八等に達している{{Sfn|神道・神社史料集成}}。かなり急速に昇位するが、当時(9世紀)大活躍していた金刺氏の大きな力があったと考えられる<ref>諏訪市史編纂委員会 編「第二節 諏訪神社上社・下社」『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、697頁。</ref><ref>宮坂光昭 『諏訪大社の御柱と年中行事』 郷土出版社、1992年、12-13頁。</ref>。
 
諏訪大社のほかに『[[延喜式]]』[[延喜式神名帳|神名帳]]に見られるタケミナカタとの関連が推測される神社として、信濃国[[水内郡]]の[[健御名方富命彦神別神社]]と[[阿波国]][[名方郡]]の[[多祁御奈刀弥神社|多祁御奈刀禰神社]]がある(後者は単に「雄々しく港を守る神」の意味か<ref>「多祁御奈刀弥神社」『日本歴史地名大系 37 徳島県の地名』 平凡社、2000年。</ref>)。
 
===祭神の配当===
419 ⟶ 431行目:
『日本書紀』の[[持統天皇]]5年(681年)8月の条に、「使者を遣わして、[[龍田大社|龍田風神]]、信濃の須波・[[健御名方富命彦神別神社|水内]]等の神を祭らしむ」とあり、諏訪の神は奈良時代以前に既に朝廷に風の神・水の神として崇敬されていたことが分かる{{efn|なお、「須波神」はタケミナカタではなく、ミシャグジ<ref>藤森栄一『諏訪大社』中央公論美術出版、1965年、24頁。</ref>または守矢神(洩矢神)<ref>宮坂光昭「強大なる神の国―諏訪信仰の特質」『御柱祭と諏訪大社』筑摩書房、1987年、17、31-33頁。</ref>とする説もある。}}<ref>{{Cite book|和書|year=1986|title=諏訪大社|author=矢崎孟伯|series=銀河グラフィック選書 3|publisher=銀河書房|page=22}}</ref>。その影響か、平安時代に入ると諏訪には風鎮めを祈願した「[[風の祝]](ほうり)」がいるという流説が広まった。
 
諏訪地方には古くから、暴風を凪ぎる(鎮める)ために鎌を竿の先に結びつけて風の方向に立てる習慣があるが、このために使われる鉄製の'''[[薙鎌]]'''(なぎかま)は諏訪明神の御神体ないし[[御幣|御神幣]]とみなされる場合もある。薙鎌は蛇(龍)または鳥にも見える形をしているが、これは[[五行思想]]では金気(鳥=[[酉]]は金気)が木気(風)に勝つもの(金剋木)と考えられていたからである<ref>矢崎孟伯 『諏訪大社』 銀河書房〈銀河グラフィック選書 3〉、1986年、98-99頁。</ref><ref>寺田鎮子、鷲尾徹太『諏訪明神―カミ信仰の原像』岩田書院、2010年、77頁。</ref><ref name="shiori13-14">『神長官守矢史料館のしおり』 茅野市神長官守矢史料館編、2017年、第三版、13-14頁。</ref>。
 
[[御柱祭]]関連の祭事にも薙鎌が用いられる。上社の方では、御柱用材を正式に見立てる際には薙鎌が木に打ち付けられる{{efn|古くは御柱祭の年に次回の御柱となる巨木を選定していたが、現在は御柱の見立てを御柱祭の前年に行い、神事の後に薙鎌を取り外し持ち帰る。}}。一方、御柱祭の前年に[[北安曇郡]][[小谷村]]にある大宮諏訪神社には下社神職(明治時代までは下社大祝)が「薙鎌祭」を行い、1枚の薙鎌を奉納する。この翌日、信越国境にある戸土諏訪神社の杉の神木に薙鎌を打ち付ける神事が行われる<ref>{{Cite web |url=https://www.82bunka.or.jp/bunkazai/legend/detail/08/post-44.php|title=式年薙鎌打ち神事|website=公益財団法人 八十二文化財団|accessdate=2019-02-06}}</ref><ref name="shiori13-14"/>。上社里曳きの初日に御柱を迎える[[神輿]]にも薙鎌が2枚あり、かつては上社造営(社殿の建て替え)の時に新築の宝殿にも打ち付けられた<ref>諏訪市史編纂委員会 編『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、674-676頁。</ref>。
431 ⟶ 443行目:
 
[[ファイル:Suwa Daimyōjin - 諏訪大明神.jpg|190px|サムネイル|<center>狩装束をまとった諏訪明神</center>]]
農耕の普及につれて、頻繁に行われたであろう狩猟が整序され、儀式化してしまう。[[八ヶ岳]]山麓にある諏訪社の狩り場「'''神野'''(こうや)」は一般は入ることの許されない禁足地と化し、皮肉なことに一般民衆の狩猟を制限して、民衆を半ば強制的に農耕文化へと移行させることとなった<ref>寺田鎮子、鷲尾徹太『諏訪明神―カミ信仰の原像』岩田書院、2010年、98-99頁。</ref>。
 
上社には古くは年中四度の御狩神事があった。
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[[ファイル:諏訪大社 前宮 十間廊.JPG|サムネイル|左|<center>十間廊(上社前宮)<br/><small>古くは「神原(ごうばら)廊」とも呼ばれた。春の御頭祭がここで行われる。</small></center>]]
春に行われる上社最重要の神事の大御立座(おおみたてまし)神事('''[[御頭祭]]''')にもこの狩猟と稲作の一体化は見られる。'''神使'''(おこう)と呼ばれる6人の男児が大祝の代理として''''''(たたえ)というミシャグジ降ろしの聖地で鉄鐸による豊作の請け負いをする農耕儀礼であるが、出発以前には鹿、猪、兎、そして魚介類などが[[神饌]]として献じられ、それを参加者一同がいただく饗膳式があった<ref>宮坂光昭『諏訪大社の御柱と年中行事』郷土出版社、1992年、69-75頁。</ref>。更に、神使が湛廻りから帰ると[[野焼き|野火をつけて]]真志野村の野焼社(現在の習焼神社)で神事を行い(酒と「折骨」、すなわち鹿のももが奉納される)、最後に田植えの真似をする<ref>宮坂光昭『諏訪大社の御柱と年中行事』郷土出版社、1992年、76-81頁。</ref>。
 
「鹿なくては御神事はすべからず」といわれるほど<ref>細田貴助 『県宝守矢文書を読む―中世の史実と歴史が見える』 ほおずき書籍、2003年、41頁。</ref>、上社の祭事には鹿は欠かせないものであった。中世の大御立座神事で供えられる75頭の鹿の頭や、鹿角製の宝印<ref>{{Cite web |url=https://www.82bunka.or.jp/bunkazai/detail.php?no=420&seq=0|title=諏訪大社 上社宝印|website=公益財団法人 八十二文化財団|accessdate=2019-02-08}}</ref>等から上社における鹿の重要性がうかがえる。上社本宮付近のフネ古墳にも、鹿角で作られた剣の[[鍔]]や[[刀子]]の[[柄]]が発見されている<ref>寺田鎮子、鷲尾徹太『諏訪明神―カミ信仰の原像』岩田書院、2010年、95頁。</ref><ref>諏訪市史編纂委員会 編『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、502, 510頁。</ref>。
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昔は狩猟儀礼や動物供犠は諏訪だけでなく、ほかの地域にも行われていた。[[無住|無住一円]]の『[[沙石集]]』「生類を神に供る不審の事」から、鎌倉時代には諏訪社のほかに[[宇都宮市|宇都宮]]([[宇都宮二荒山神社|二荒山神社]])にも鹿と鳥が贄として捧げられたことが分かる{{efn|「信州の諏方・下野の宇都の宮、狩を宗として鹿・鳥なんどを手向くるも此のよしにや。大権の方便は凡夫知るべからず。(中略)凡そは殺生をせずして、仏法の教への如く戒行をもまぼり、般若の法味を捧げんこそ、まことには神慮に叶ふべき事にて侍れ。」<ref>無住『[https://books.google.co.jp/books?id=h96avob5jhMC 校註 沙石集]』藤井乙男編、文献書院、1928年、22頁。</ref>}}。また、最近までは[[西宮神社]]、[[松尾大社]]、[[熊野大社]]、[[熱田神宮]]、[[阿蘇神社]]等にも形ばかりの御狩神事があった<ref name="kanai21-22">金井典美「諏訪神社神官考」『諏訪信仰史』名著出版、1982年、21-22頁。</ref>。しかし、仏教の浸透とともにしだいに動物の殺生や肉食が敬遠されるようになり、狩猟神事も少なくなっていたが、諏訪は別であった。こうして狩猟を司る諏訪明神は「肉食を許す神」として篤い信仰を集めるようになった<ref>『神長官守矢史料館のしおり』 茅野市神長官守矢史料館編、2017年、第三版、27頁。</ref><ref>寺田鎮子、鷲尾徹太『諏訪明神―カミ信仰の原像』岩田書院、2010年、110-111頁。</ref>。
 
[[鎌倉幕府]]が1212年([[建暦]]2年)に[[守護]]・[[地頭]]の[[鷹狩]]を禁じた際、「信濃国諏方大明神御贄鷹」のみを除外し、その後さらに五月会と御射山祭の場合のみ許すといった指令を下したが、この禁止令は中々順守されなかった。むしろ、これを契機として諸国の武士が各地で諏訪神社を勧請し、その御贄鷹だとして「'''諏訪流鷹狩'''」を行った<ref>Grumbach, Lisa. (2005) ''Sacrifice and Salvation in Medieval Japan: Hunting and Meat in Religious Practice at Suwa Jinja'', Stanford University, 2005, pp. 170-176, 185.</ref><ref name="kanai21-22"/><ref>諏訪市史編纂委員会 編『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、836頁。</ref>。また、何らかの理由で肉を食料とせざるを得ない人々(穀類が中々生産できない山間地に住む人々など)には上社の社家が頒布していた「'''鹿食免'''(かじきめん)」と「'''鹿食箸'''」と呼ばれる肉食の免罪符は人気があった。上社が毎年[[御師]](諏訪神人)を派遣して、諸国を巡ってこれを配った<ref>『神長官守矢史料館のしおり』 茅野市神長官守矢史料館編、2017年、第三版、28頁。</ref><ref>『諏訪市史 中巻 (近世)』 諏訪市史編纂委員会編、諏訪市、1988年、874頁。</ref><ref> 宮坂光昭「強大なる神の国―諏訪信仰の特質」『御柱祭と諏訪大社』筑摩書房、1987年、51-57頁。</ref>。更に、殺生罪を取り除く「'''諏訪の勧文'''(かんもん)」と呼ばれる4句の[[偈]]は猟師の滅罪の唱文として拡まった<ref>Grumbach, Lisa. (2005) ''Sacrifice and Salvation in Medieval Japan: Hunting and Meat in Religious Practice at Suwa Jinja'', Stanford University, 2005, pp. 170-176, 203-210.</ref><ref>武井正弘「祭事を読む―諏訪上社物忌令之事―」『飯田市美術博物館 研究紀要』、9(0)、1999年、128頁。</ref>。
 
<blockquote>業尽有情(ごうじんうじょう)<br/>
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===神仏習合===
[[ファイル:Mandala1 detail.jpg|サムネイル|<center>中台八葉院([[両界曼荼羅#胎蔵曼荼羅|胎蔵界曼荼羅]])<br/><small>諏訪大社の神々は右上の[[普賢菩薩]]と左下の[[観音菩薩]]と習合された。</small></center>]]
[[本地垂迹説]]が広まると、上社の男神は'''[[普賢菩薩]]'''、下社の女神は[[千手観音]]の垂迹とされていた。『画詞』によると、
 
<blockquote>{{読み仮名|爰|ここ}}に信州諏方大明神は、本地を訪へば普賢大士の{{読み仮名|応作|おうさ}}。恒順衆生の願、余聖にこえ、懺懈滅罪の益、諸凡にかうぶらしむ。(中略)下宮は大慈大悲の[[菩薩|薩埵]]、千手千眼の示現なり。{{読み仮名|[[地獄 (仏教)|泥梨]]|ないり}}には極苦にかはり、[[娑婆]]には無畏を施す。(中略)この上下両社は、世俗に准じて[[陰陽]]の儀を表す。 またこれ定慧{{efn|[[禅定]]と[[智慧]]。}}の法門なり。<ref>宮坂宥勝「神と仏の融合ー密教思想からの解釈」『御柱祭と諏訪大社』筑摩書房、1987年、146-147頁。</ref></blockquote>
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諏訪盆地の地形が[[胎蔵界曼荼羅]]の中核をなす中台八葉院と比定され、諏訪湖(=中尊の[[大日如来]])の東南にある上社の地点には右上の普賢菩薩、その北西にある下社には左下の観音菩薩が配された<ref>宮坂宥勝「神と仏の融合ー密教思想からの解釈」『御柱祭と諏訪大社』筑摩書房、1987年、151-152頁。</ref>。上社と下社をそれぞれ胎蔵界と金剛界とみたてることもあった<ref>宮坂宥勝「神と仏の融合ー密教思想からの解釈」『御柱祭と諏訪大社』筑摩書房、1987年、161-162頁。</ref>。
 
諏訪に本地垂迹説が入った時代に、上社本宮には4つの[[別当寺]](神宮寺・如法院・蓮地院・法華寺)ができ、守矢氏の神長は[[両部神道]]を学び祭事に[[密教]]要素([[真言]]・[[印相]]など)を導入して、天皇の[[即位灌頂]]や神道灌頂を参考にして大祝の即位式を密教風にした<ref>『続・高部の文化財』高部歴史編纂委員会編、2006年、39頁。</ref><ref>諏訪市史編纂委員会 編「第ニ節 諏訪神社上社・下社」『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、722-723頁。</ref><ref>山本ひろ子「囚われの聖童たち 諏訪祭政体の大祝と神使をめぐって」『諏訪学』、国書刊行会、2018年、105-107頁。</ref><ref>寺田鎮子、鷲尾徹太『諏訪明神―カミ信仰の原像』岩田書院、2010年、117頁。</ref>。また、上社本宮の拝幣殿の奥には[[南天鉄塔]]をもとにした「'''石之御座多宝塔'''」(「お鉄塔」とも)と呼ばれる石製の[[仏塔]]が安置され、大祝のほかに[[神体]]に相当するものとして篤く崇敬された。毎年1月15日にこの塔に『[[法華経]]』を納める仏事が行われていたが、納められる経巻は龍神(諏訪明神)が受け取りに行くため、次の年には全部なくなっていると信じられていた<ref>宮坂宥勝「神と仏の融合ー密教思想からの解釈」『御柱祭と諏訪大社』筑摩書房、1987年、153-160頁。</ref>。また、諏訪明神の本地仏を祀る「'''普賢堂'''」は上社神宮寺の奥の院として多くの参拝者を集めた<ref>{{Cite web |url=https://suwacitymuseum.jp/nandemo/koumoku/0300/030107.htm|title=諏訪神社上社普賢堂|website=なんでも諏訪百科|publisher=諏訪市博物館|accessdate=2019-01-13}}</ref>。
 
[[明治時代|明治]]の[[神仏分離]]の時、上社と下社の仏教寺院のほとんどが取り壊されてしまい、破壊されなかった[[仏像]]・[[仏具]]は他の寺に移された<ref>宮坂宥勝「神と仏の融合ー密教思想からの解釈」『御柱祭と諏訪大社』筑摩書房、1987年、182-184頁。</ref>。「お鉄塔」は温泉寺([[諏訪市]]湯の脇)に移動され、現在は境内の多宝塔に安置してある<ref>宮坂宥勝「神と仏の融合ー密教思想からの解釈」『御柱祭と諏訪大社』筑摩書房、1987年、154頁。</ref>。
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* {{Cite book|和書|editor=諏訪市史編纂委員会編|year=1988|title=諏訪市史 中巻 (近世)|publisher=諏訪市}}
* {{Cite book|和書|editor=スワニミズム|year=2017|title=スワニミズム 第3号 特集:ミシャグジ再起動}}
* {{Cite book|和書|editor=二本松康宏|year=2019|title=諏訪信仰の歴史と伝承|publisher=三弥井書店|isbn=978-4-838-23344-1}}}}
* {{Cite book|和書|editor=|author=[[瀧音能之]]|year=2006|chapter=建御名方神|title=日本古代史大辞典|publisher=[[大和書房]]|isbn=978-4-479-84065-7|ref={{Harvid|建御名方神(古代史)|2006年}}}}
* {{Cite book|和書|editor=[[谷川健一]]|year=1987|title=日本の神々―神社と聖地〈9〉美濃・飛騨・信濃|publisher=白水社|isbn=978-4-560-02509-3}}
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* {{Cite book|和書|editor=|author=|year=1979|chapter=諏訪大社上社本宮|title=[[日本歴史地名大系]] 20 長野県の地名|publisher=[[平凡社]]|isbn=4-582-49020-4|ref={{Harvid|諏訪大社上社本宮(平凡社)|1979年}}}}
; 論文
*青木隆幸「中世的神話世界の形成―諏訪上社大祝と『諏訪大明神絵詞』をめぐって―」『長野県立歴史館研究紀要』18、2012年、24-35頁。
*井原今朝男「[https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1538&item_no=1&page_id=13&block_id=41 鎌倉期の諏訪神社関係史料にみる神道と仏道―中世御記文の時代的特質について]」『国立歴史民俗博物館研究報告』139、2008年、157-185頁。
*工藤浩「[https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=5217&item_no=1&page_id=13&block_id=21 タケミナカタ神の諏訪鎮座をめぐって]」『国文学研究』143、早稲田大学国文学会、2004年、1-12頁。