「張純の乱」の版間の差分

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[[184年]]に起こった[[黄巾の乱]]で後漢王朝の中央政権の無力化が表面化し、その影響は中国東北部の[[幽州]]にも及んだ。ここには後漢の元・中山太守の張純や[[烏桓]]大人の[[丘力居]]らがいた。丘力居は黄巾の乱以後、次第に後漢からの独立を模索していた。そこで「弥天安定王」と称した張純と手を組んで挙兵し、鳥桓・張純連合軍は[[青州 (山東省)|青州]]・[[徐州]]・幽州・[[冀州]]などを荒らしまわった。この反乱軍には中央政権に不満を抱く漢民族も加わり、総勢は10万近くに及んだとされる。
 
これに対して朝廷では[[公孫サン|公孫瓚]]を平定に向かわせた。公孫{{JIS2004フォント|瓚}}は張純を石門合戦で破って大勝を得たが、平定には至らなかった。そのため、朝廷は皇族の[[劉虞]]を幽州牧に任命して平定に当たらせた。劉虞は丘力居に懐柔策を用いて張純との離間を図った。もともと劉虞は徳厚い信望者であったため、丘力居は劉虞に帰順する。張純は逃亡して[[鮮卑]]族のもとに逃げたが、189年3月に食客の王政によって殺害され、乱は平定された。
 
== 影響 ==
[[正史]]において、この反乱平定の際に公孫{{JIS2004フォント|瓚}}は功績を劉虞に奪われることを恐れて、劉虞と鳥桓の交渉を妨害したとされている(この行為が、正史で[[陳寿]]に州郡を治める立場にありながら、かえって平民にも劣る者どもであり、論評に値しないと酷評される一因となる)。この反乱のときから、公孫{{JIS2004フォント|瓚}}と劉虞の対立が始まり、それが後に大きな動乱を招く一因となったのである。
 
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