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[[ファイル:Mu-ch'i 001.jpg|350px|thumb|漁村夕照図([[国宝]] [[根津美術館]]蔵)]]
'''牧谿'''(もっけい、生没年不)は、[[13世紀]]後半、[[中国]][[南宋|宋]]末[[元 (王朝)|元]]初の僧。[[諱|法諱]]は'''法常'''で、牧谿は[[ (称号)|号]]だが、こちらで呼ばれるのが通例。俗姓は李。[[水墨画]]家として名高く、日本の水墨画に大きな影響を与え、最も高く評価されてきた画家の一人である。
 
==略歴==
[[File:Evening bell from mist-shrouded temple.jpg|thumb|left|250px|煙寺晩鐘図([[国宝]] [[畠山記念館]]蔵)]]
[[四川省蜀州|四川崇慶府]]の出身。その後、[[越州 (浙江省)|浙江紹興府]]に移り、[[禅宗]]の高僧[[無準師範]]の門下に入ったとされる。南宋の首都[[杭州市|臨安]]にあり、風光明媚な[[西湖 (杭州市)|西湖]]の畔に臨む六通寺(現在は廃寺)に住み活動していた。中国ではあまり評価されなかったといわれるが、[[賈似道]]のような大物政治家と関係があったことから、当時は画家として十分評価され、江南山水画の主流に位置づけられていたと考えられる。しかし、中国では死後次第に忘却され、既に[[元 (王朝)|元]]代には「粗放にして古法なし」(元末の絵画史家、夏文彦『図絵宝鑑』巻四など)とする悪評がある。後代の[[文人画]]の流行により、牧谿が連なる[[院体画]]系の絵師や仏教美術は相対的に低く評価されてしまい、牧谿もそのあおりを受けてしまったというが正しいだろう。
 
弟子に羅窓という画僧がおり、彼の唯一の遺品「竹鶏図」([[東京国立博物館]]蔵(蔵品番号TA341)、重要文化財)は、牧谿の影響を示している。